その後、前述の通り、孟嘗君は、讒言によって、昭襄王に謀殺されそうになったために、紀元前297年、食客の力を借りて、斉に逃亡した。
その時の逸話が、「鶏鳴狗盗」である。
翌年、斉の宰相となった、孟嘗君は、斉・韓・魏を主力とし、趙・宋の軍と合わせて、秦に攻め込んで来た。
秦は、函谷関において、敗北したのである。
昭襄王は、敗戦後の処理を、孟嘗君に代わり、宰相となっていた、楼緩に対し、「河東の地を割いて、斉・韓・魏の三国と講和したいと思うが、どうであろうか」と尋ねた。
楼緩は、「国の大事を決めるのは、重臣方の任務です。何故、公子池を召されないのですか」と答え、罪に陥れられることを避けたのである。
昭襄王は、公子池を召して、改めて尋ねた。公子池は「講和を行っても、行わなくても、後悔されるでしょう」と言った。
昭襄王が、「何故か」と問い返すと、公子池は、「河東の地を割いて、三国の兵が引き揚げれば、恐らく、「斉・韓・魏が引き揚げようとしたところへ、河東をくれてやるとは、惜しいことをしたと言われるでしょう。」
公子池は、更に「その反対に、講和されなければ、咸陽は危うくなり、惜しいことをした。わずか、河東の地三県を惜しんだばかりに大敗したと言われるでしょう」と答えたのである。
昭襄王は、公子池の進言を容れて、河北及び、封陵の地を与えて、三国と和睦した。
なお、宰相として、重用されていた、楼緩は、先の趙王の武霊王の命で、秦に来ていた。
趙は、楼緩が、秦の宰相であることを自国の不利と考え、仇液という者を秦に遣わせて、魏冄を宰相に任命するように請うた。
紀元前295年、昭襄王は、楼緩を罷免すると、叔父の魏冄を宰相とした。
前述の通り、魏冄は、昭襄王の母、宣太后の異父同母弟であり、武王の死後の王位継承争いの際、昭襄王を秦の王に擁立した。
紀元前294年、昭襄王は、向寿に命じて韓を討ち、武始の地を取った。
向寿は、宣太后の甥であり、幼少の時から、昭襄王と一緒に成長したため、重用されていた。
向寿は、昭襄王の即位後に、甘茂・公孫奭等と共に、政務を行い、甘茂の亡命後には、秦の宰相になった。
昭襄王、任鄙を蜀の漢中の郡守とし、後顧の憂いを絶った。
魏冄は、白起を将軍として推挙した。
昭襄王は、従わざるを得ず、向寿に代わって、白起を左庶長に任じた。
軍事的天才の、白起の登用が、秦の国土を大きく飛躍することになった。
紀元前293年、昭襄王は、白起を左吏に昇格させた。
同年、韓と魏は、度重なる、秦の侵攻に危機感を募らせて、同盟を結び、東周を同盟に引き込んだ。
韓・魏の連合軍は、魏の主将、公孫喜が、大将となって、伊闕において、秦軍と対峙した。
伊闕の戦いである。
秦軍の兵力は、連合軍の半分以下であった。
連合軍は、韓軍が最も弱く、魏軍が、主体となり、攻撃を担うことを希望していた。
しかし、魏軍は、韓軍の精鋭部隊に頼って、韓軍が、秦軍に対し、先陣を切ることを希望した。
秦軍の主将の白起は、韓と魏の連合軍の共同力が、弱く、互いが、先陣を切る気がなく、推し合っている、弱点を利用した。
そして、魏軍に対し、兵力を集中させ、猛攻を仕掛けた。
魏軍は戦敗し、その後、韓軍も戦敗し、敗走した。
秦軍は追撃し、大勝した。
伊闕の戦いで、秦軍は敵兵24万を斬首し、伊闕と五つの土城を得て、総大将の公孫喜は捕虜となった。