1806年6月5日、前述の通り、ナポレオンは、現在のオランダ、パタヴィア共和国を、ホラント王国にとし、ナポレオンの弟のルイ・ボナパルトが、ホラント国王の座に就いた。

 ルイは、6月22日、ホラント国王、ローデウェイク1世として、ハーグに入った。

 しかし、ルイは、兄のナポレオンの単なる、傀儡にはならなかった。

 ルイは、オランダ人の利益に配慮し、ホラント王国に対する、責務を良心的に果たした。

 ルイ国王は、ホラント王国の内政、経済復興に尽力すると、ナポレオン法典の導入及び、カトリック教会の復権などを実現した。

 しかし、徴兵制の導入及び、1806年11月21日のナポレオンの大陸封鎖令、即ち、ベルリン勅令に反対した。

 ホラント王国の経済は、貿易への依存度が、高かったために、イギリスとの貿易禁止、即ち、大陸封鎖令は、王国の経済を直撃する。

 ルイは、大陸封鎖令に従わざるを得ずに、1807年9月4日、ホラント王国の港は、イギリスとの交易に、扉を閉ざした。

 その結果、ホラント王国では、イギリスとの密貿易が、横行したが、ルイは、密貿易を黙認した。

 1808年2月23日、ナポレオンは、フランス帝国及び、ホラント王国の連合艦隊による、イギリスへの直接攻撃を考えたが、実現しなかった。

 3月27日、ナポレオンは、ホラント国王として、独自の政策を推進する、ルイに不快を感じ、当時、混乱状態に陥っていた、スペイン国王就任を提案したが、4月15日、ルイは、ナポレオンの提案を拒否した。

 1809年7月17日、ナポレオンは、国王ルイに対し、ホラント王国における、密貿易の取り締まりが、手緩いと叱責した。

 当時、ナポレオンは、オーストリアとのヴァグラムの戦いを終えたばかりであった。

 そして、7月29日、イギリス軍、4万万人が、ホラント領、ワルチュレン島に上陸し、フレシンゲンに向けて、進発した。

 イギリス軍は、フレシンゲンを占領すると、アントワープへ進軍する、勢いを示した。

 イギリス軍が、進撃を続ければ、フランス本土へ到達する。

 当時、フランスの大陸軍は、オーストリア及び、イベリア半島にいたため、本国の防衛は、手薄であった。

 フランスの留守内閣は、イギリス軍の上陸に対し、ナポレオンの指示を仰ごうとした。

 しかし、フーシェは、ナポレオンの指示を待たず、海軍大臣ドクレが、提案していた、民兵組織の国民衛兵を、独断で、招集した。

 フーシェは、内務大臣の権限を行使すると、北部諸州の国民衛兵の招集を実行し、ドイツ方面軍司令官を解任され、パリに戻っていた、ベルナドット元帥を派遣軍の司令官に任命し、アントワープに向かわせた。

 フランスの陸軍大臣、クラルクは、フーシェの独断専行に激怒し、シェーンブルン宮殿のナポレオンに使者を送った。

 ナポレオンは、即座にフーシェの措置を全面的に承認して、3万人の国民衛兵の追加招集を命じた。

 前述の通り、イギリス軍内には、疫病が、蔓延し、同盟国のオーストリアが、ヴァグラムの戦いに敗北していたため、イギリスに帰還した。

 しかし、フーシェは、イギリス軍の撤退後、マルセイユに敵の上陸の可能性があると、主張して、南部諸県の国民衛兵を招集した。

 フーシェは、ナポレオンの不在中、フランス本国を動かせるのは、自分のみであると、その力を見せつけようとしたのである。