「外様」とは、本来、主家とは、緩い主従関係を持った、家臣を意味する。
江戸幕府での外様大名とは、関ケ原の戦い後、徳川家康に従った、豊臣家の大名である。
外様大名は、譜代大名と異なり、幕政に参与できないが、加賀百万石の前田家、六十二万石の伊達家、五十二万石の黒田家等、譜代大名と比べ、圧倒的に石高が多い。
関 ケ原の戦い後、徳川家康は、東軍に味方した、大名達に対し、恩賞として、加増した。
徳川家康は、豊臣政権では、他の大名と同様、一大名に過ぎなかったため、東軍の大名達に恩賞を与える必要があった。
江戸を中心とする、関東及び、京・大坂・東海道沿い等の戦略的な要地の近くには、外様大名は、置かれなかった。
1615年(元和元年)7月17日、大阪夏の陣の後に、徳川家康は、禁中並公家諸法度を1制定して、朝幕関係を規定した。
禁中並公家諸法度は、皇室及び、公家が、厳守するべき、諸規定、僧の官位を規定している。
徳川将軍は、朝廷によって、征夷大将軍に任官するが、禁中並公家諸法度は、朝廷が、政治に関与しないように封じ込めたのである。
同年、徳川家康は、武家諸法度及び、一国一城令を制定した。武家諸法度は、旗本及び、陪臣を含まず、一万石以上の諸大名を対象とした、基本法である。
主に文武及び、倹約の奨励等を規範とし、大名同士の婚姻の許可制、居城修補の届出制及び、罪人を匿うことを禁じるなどの統治の制限を規定していたのである。
一国一城令は、諸大名に対し、複数の城を持つことを禁じている。
一つの令制国を複数の大名が、分割して、領有している場合は、各々の大名毎に一城とした。
一つの大名家が、複数の令制国に跨がって、領有している場合は、各々の令制国に一城としているのである。
一国一城令の目的は、諸大名の軍事力を削減し、戦争を封じるためであった。
翌年の1616年(元和二年)1月21日、徳川家康は、病のため、鷹狩に出た先で倒れた。
3月21日、徳川家康は、朝廷によって、太政大臣に任ぜられた。
武家出身の太政大臣は、平清盛、源義満、豊臣秀吉に次いで、史上四人目であった。
その後、江戸時代を通じて、武家出身の太政大臣は、二代将軍の徳川秀忠及び、十一代将軍の徳川家斉のみである。
1616年(元和二年)4月17日、徳川家康は、駿府城において、七十五歳の生涯を閉じた。
その夜、徳川家康の遺体は、久能山に移され、久能山東照宮に葬られた。
更に、遺言通り、一周忌を経て、日光の東照社、即ち、日光東照宮である。
翌年、徳川家康は、東照大権現の神号及び、神階正一位が贈られ、「神」となったのである。
織田信長は、天下統一の目前にて、本能寺の変で、殺害された。
豊臣秀吉は、諸大名に所領安堵することによって、天下統一を果たした。
しかし、豊臣秀吉は、朝鮮出兵により、無用の戦争を引き起こした。
徳川家康は、関ケ原の戦いによって、江戸に武家政権を開き、大阪の陣によって、豊臣家を滅ぼし、天下泰平の世を築いたのである。
1615年(元和元年)の豊臣家の滅亡以後、1864年(元治元年)の第一次長州征伐までの二百四十九年間、日本には、大規模な戦争が発生しなかった。
徳川家康の最大の功績は、世界史上において、類例の無い、泰平の世を築いたことである。
戦国時代、誰もが夢見た、「泰平の世」を、徳川家康が、遂に、実現し、約二百五十年間維持したのである。