島津家は、二年間という、粘り強い外交によって、減封されることはなく、本領安堵を得ることができたのである。

 薩摩は、大坂から、離れている、地理的な利点は大きかった。

 しかし、早い段階において、徳川家康に全面的に降伏をしていた、毛利氏及び、上杉氏が、大幅に減封されたことと比較すると、対照的な結果となった。

 宇喜多秀家は、関ケ原の戦い後、薩摩に匿われていたが、1603年(慶長八年)、島津義弘の息子、島津忠恒によって徳川家康の許へ身柄を引き渡された。

 宇喜多秀家は、前田利長と島津忠恒による、助命嘆願により、死罪を免れた。

 宇喜多秀家の妻は、前田利家の四女、豊臣秀吉の幼女の豪姫であり、前田利長とは、義兄弟であった。

 宇喜多秀家は、1606年(慶長十一年)に八丈島に流罪となった。

 宇喜多秀家は、前田家、宇喜多家の旧臣、花房正等の援助を受けて、八丈島において、五十年の歳月を過ごした。

 宇喜多秀家は、1655年(明暦元年)に死去した。

 享年、八十四歳である。

 既に徳川幕府の第四代将軍、徳川家綱の治世で、関ヶ原に参戦した、大名としては、最も長生きした。

 宇喜多秀家は、関ケ原の戦い以前は、徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝と並ぶ、五大老の一人で、備前国を中心とする、五十七石の領主であった。

 宇喜多秀家は、西軍の諸将の中で、関ケ原の戦いに参加した、唯一の五大老である。

 そのため、毛利氏、上杉氏の減封処分に対し、五大老の中で、唯一、改易されたと言える。

 関ケ原の戦い後、10月に毛利氏の処分が決定し、11月には、島津氏が、謝罪したため、西軍に加担した大名の中で、処分が未決となっていたのは、上杉景勝と佐竹義宣になった。

 上杉景勝は、徳川家康の会津征伐軍が、西上すると、最上義光と長谷堂城を中心に戦闘を繰り広げたが、9月30日、西軍敗走の一報が、伝えられると撤退した。

 最上義光は、上杉景勝に占領されていた、最上郡・村山郡を取り戻す過程で、尾浦城主・下秀久を帰順させ、庄内地方への攻撃を開始した。

 10月6日には、伊達政宗が、桑折への侵攻を開始している。

 上杉景勝は、防戦する一方で、家中にて、今後の対応を協議した。

 直江兼続、甘糟景継、竹俣利綱等は、徳川家康への抗戦を主張した。

 しかし、本庄繁長、千坂景親等は。和睦を主張した。最終的に10月23日に、上杉家は、和睦の方針を決定し、直江兼続は、主戦派の「江戸へ南下するべし」との意見を退けた。

 交渉には、本多正信と親交の深い、千坂景親と和睦を主張した、本庄繁長が任命された。

 以後、上杉景勝は、徳川家康との和睦交渉を開始した。

 上杉景勝は、本多正信を始め、東軍の対上杉防衛軍の総大将であった、結城秀康及び、本多忠勝、榊原康政等に取り成しを依頼した。

 その結果、徳川家康は、当初、上杉景勝の改易を予定していたが、次第に態度を軟化させた。

 1601年(慶長六年)春、最上義康は、酒田城の志駄義秀を攻めて降伏させ、最上氏は庄内地方一円を奪取した。

 伊達政宗は、福島城を数度に渡り、攻めたが、上杉氏の守りに阻まれた。

 同年7月1日、上杉景勝は、千坂景親・本庄繁長の両名の報告等から、徳川家康との和睦が可能となったと判断した。

 そして、上杉景勝は、直江兼続と共に上洛し、豊臣秀頼に謁見した。

 8月8日。上杉景勝は、結城秀康に伴われて、伏見城の徳川家康を訪問し、謝罪した。