郭隗が、昭王に自分に宮殿を与え、優遇させたため、有能な人材を集めることに成功した。

 有名な「隗より始めよ」の故事成語の由来である。

 なお、趙の武霊王は、燕の「公子職」を韓から迎え、燕の君主にしようとしたとされる。

 即ち、燕の昭王とは、太子平のことなのか、公子職のことなのかは、明確になっていないのである。

 前述の通り、楽毅は、中山国の出身で、趙滅中山の戦いで、中山国が、趙の武霊王により、滅ぼされると、一度、趙に入ったと言われる。

 その後、紀元前295年、趙の内乱によって、武霊王が、息子の恵文王に殺されると魏に移った。

 楽毅は、魏の昭王の家臣になるが、燕の昭王が、人材を求めていると聞いて、燕への使者になり、そのまま、燕に仕官した。

 燕の昭王は、楽毅の才能に着目し、楽毅を上卿に次ぐ、亜卿に任じた。

 当時の斉の国は、全盛期に入っており、斉の湣王は、宋を滅ぼし、楚及び、趙・魏・韓を破ると、泗水沿岸の魯等の諸侯を事実上、属国とした。

 前述の通り、斉の湣王は、秦の昭襄王と共に「王」より、上位とされる、「帝」号を称していたのである。

 燕は、当時の斉とは、国力、軍事力において、全く、比較の対象にならなかった。

 しかし、昭王は、斉への恨みを晴らしたいとの思いを抑え切れなかったのである。

 昭王の意向に対し。楽毅は、他国と連合して、斉に当たるべしと説いた。

 湣王は、傲慢で知られて、斉の国力を背景に小国に対して、恫喝的な外交を布いていたため、他国の恨みを買っていた。

楽毅は、最初に趙を説得し、魏と韓を引き入れ、趙の友好国の秦を引き入れた。

 そして、紀元前286年、前述の通り、湣王は、更に傲慢になって、宰相の孟嘗君が、疎ましくなり、孟嘗君は、魏へ逃亡した。

 紀元前284年、燕の昭王は、楽毅を上将軍に任じ、大軍を発し、韓・魏・趙・秦の四カ国の合従軍に合流したのである。

 楽毅は、燕、韓・魏・趙・秦の五国の合従軍を率いて、斉を攻撃した。

 斉の湣王は、田觸を将軍として、斉の全軍を率いた。

 斉軍の主力は、済水を渡河した。合従軍及び、斉の軍は、済水の西で決戦を行った。

 斉軍の士気は、連年の戦争で、低くかった。

 湣王は兵士に死戦を行わせるために、先祖の墓を掘って、兵士を殺すと脅したが、兵士の士気は、更に低下した。

 その結果、合従軍が進攻した時、斉軍は、一瞬で、壊滅状態となるほどの惨敗を喫した。

 田觸は、逃亡して、副将の田達は、残兵を率いて、王都の臨淄に撤退した。

 斉軍の主力が、壊滅した後、楽毅は、秦、韓の両軍を帰還させ、魏軍は、宋の地を攻め、趙軍は河間を占領、燕軍は、斉軍を追撃した。

 この時、楚の頃襄王は、斉の救援を名目に淖歯を送りこんだ。

 楽毅は、斉の国都、臨淄を攻略後、善政を敷き、軍事規律を肯定し、略奪を厳しく禁止、残酷な法律、過酷な税を廃止し、斉の民衆の支持を集めた。

 その後、軍隊を分割して、斉軍を完全に排除し、斉国の占領を拡大した。

 燕軍は僅か六カ月で斉の七十余りの城を占領し、莒と即墨の両城だけが残った。

 湣王は、莒に逃げ込んでいた。

 淖歯は、莒の湣王を殺し、斉に占領されていた、淮北を取った。

 紀元前283年、斉の大臣、王孫賈達が、淖歯を殺し、湣王の息子の田法章を擁立し、襄王として即位した。

 襄王達は、莒に籠城し、燕軍に対して必死に抵抗した。

 即墨では、楽毅によって、守将が戦死すると、斉の王族である、田単を将軍に推薦し、燕軍に抵抗したのである。