紀元前288年10月、秦の昭襄王が、西帝を自称した。

 そして、斉の湣王へ魏冄を派遣し、東帝を称して、共同で、趙を攻めるように要請した。

 斉の湣王は、蘇秦に問うと、蘇秦は、斉王に受諾するように頼んだ。

 しかし、後に蘇秦は、秦王が、帝号を称し、天下の各国が、反対を唱えなければ、斉王は、帝号を称することにした。

 しかし、秦王は、帝号を称することにより、天下の各国から、非難を浴び、斉王は帝号を称しなかった。

 また、共同で、趙へ侵攻するより、暴虐ぶりで、『宋の桀』と知られる、康王の宋へ侵攻することが有利であると説いた。

 斉の湣王は、同意し、帝号から、王号に戻した。

 同年12月、呂礼が、斉から、秦へ派遣され、昭襄王は、帝号を廃し、秦王を称した。

 前述の通り、中華世界の初期の君主は、「三皇五帝」と呼ばれていた。

 三人の「皇」及び、五人の「帝」が、存在したとされる。

 「帝」は、その後、「宇宙の最高神」「最大最高の神靈、上帝」を意味するようになる。

 五帝の最後の一人、「舜」の死後、禅定を受けた、「禹」は、夏「王」朝の始祖であるが、「王」の称号の由来は、不明である。

 その後、夏、殷、周が、中華世界の最高君主としては、「王」号を称していたが、前述の「斉秦互帝」を見る限り、「帝」の称号は、「王」の称号より、上であると認識されていた。

 戦国の七雄が、「王」号を称すると、王号は、最高君主ではなくなったと言える。

 その結果、後に秦が、中華世界を統一すると、始皇帝が、「皇帝」の称号を作ったのである。

 時代を遡るが、紀元前320年、燕では、燕王噲が、君主の座に就いた。

 噲は、王としての能力に欠けていたため、子之を宰相とし、国政を完全に任せていた。

 子之は、蘇秦の縁戚で、蘇秦の弟の蘇代と交友関係を結んでいた。紀元前316年、燕王噲は、王位を子之に譲った。燕

 王噲は、子之を盲信し、遂に、燕の王族でない、子之に禅譲したのである。

 燕は、新たな王となった、子之により、二年で乱れた。

 紀元前314年、燕の将軍の市被が、国の行く末を案じて、燕の太子平を擁して、子之を攻撃し、宮殿を包囲した。

 子之の軍が、市被を撃破すると、市被は、態度を翻し、太子平を攻撃し、市被は戦死した。

 斉の宣王は、燕の内乱を好機と捉え、公氏職を援助する、名目により、大軍を燕に送り込んだ。

 斉の軍勢を率いるのは、将軍の匡章であった。

 匡章は、威王・宣王・湣王の三代に仕えた、名将である。

 匡章は、燕の国都、薊を陥落させ、子之は逃亡したが、その後、捕らえられて、殺害された。

 燕王噲は、混乱の中で、斉軍によって、殺害された。

 匡章は、燕の公子職の軍を攻撃して、壊滅させると、燕の全土は、斉に併合され、一時的に滅亡した。

 二年後の紀元前312年、公子職は、斉への服属を条件に、燕の王位に就き、昭王となった。

 昭王、は燕の再興と斉への復讐を目的にして、富国強兵及び、人材の登用を行おうとした。

 昭王は、郭隗に対して、「有能な人材を集めるためには、どうすればよいか」と質問した。

 郭隗は、「まず、私を優遇して下さい」と答えた。

 郭隗の意図は、「私の様な愚人が、採用されることを知れば、全国から、優れた武人及び、政治家が集まってくる」とのことであった。

 昭王は、郭隗の意見を採用した。

 郭隗の読みは、的中して、趙から、政治家の劇辛、斉から、陰陽家の鄒衍、魏からは、楽毅が、集まった。

 そして、燕は、次第に国力を増したのである。