北条軍は、伊豆の南端の下田城を防衛線として、水軍を集結させていたため、西伊豆の諸城砦には、少数の陸戦部隊しか、配置していなかった。

 同年の3月1日、豊臣秀吉は、後陽成天皇から、北条氏の討伐を名目として、節刀を賜り、聚楽第から、大軍を率いて、東国に下向した。

 秀吉は、節刀を賜り、正式に北条討伐の大義名分を得たと言える。

 中山道からは、北国勢の前田利家・上杉景勝・真田昌幸・依田康国等が、3月15日に、碓氷峠へ進軍。

 近江八幡、柏原宿、大垣城、清州城、三河吉田城を経て、3月19日には、豊臣秀吉が、駿府城に入り、徳川家康が、迎えた。

 27日、豊臣秀吉が、最前線の三枚橋城に到着し、翌日、秀吉は、家康と共に北条方の拠点、山中城と韮山城を遠目に視察した。

 その後、豊臣秀吉と徳川家康は、長久保城に入った。

 その他、出羽国の戸沢盛安及び、陸奥国の津軽為信等の東国・東北の諸勢力が、秀吉の下に参陣し、所領安堵を受けている。

 2月28日、北方では、北国勢による、松井田城攻めが、開始された。

 翌日の29日には、豊臣秀次が、6万8千の軍勢を率い、山中城を攻め、一日で、陥落させた。

 豊臣秀吉の本隊は、山中城と周辺の諸城を落とすと、4月1日に箱根山に本陣を移した。 

 秀吉の諸将は、箱根を越えて、小田原に進軍し、海からは、伊豆を経由して、九鬼嘉隆、加藤嘉明、脇坂安治らの水軍が迫った。

 4月4日、徳川家康及び、堀秀政等が、小田原城の包囲を開始した。

 4月5日、秀吉は、箱根湯本の早雲寺を占拠し、当初、本営とした。

 早雲寺は、小田原北条氏の家祖と言える、北条早雲に由来する、北条氏の菩提寺である。

 4月8日、韮山城を包囲中の軍勢の内、織田信雄等が、小田原城包囲に加わるために移動。

 韮山城は、蜂須賀家政、福島正則、戸田勝隆、筒井定次らが、包囲を継続した。

 韮山城の包囲の間、城方からは、抵抗が、皆無に近かった。

 4月9日、小田原城中にいた、皆川広照が、手勢百余と共に城を脱出し、木村重茲の陣に投降した。

 その頃、参陣命令を受けていた、安房国の里見義康が、浦賀水道を渡って、対岸の相模国三浦半島に進軍した。

 小田原包囲戦の開始と共に豊臣秀吉は、小田原城を見通せる、石垣山に城を築き始めた。

 豊臣秀吉は、茶人の千利休を主催とし、大茶会などを連日開いた。

 茶々等の妻女及び、御伽衆も呼び寄せ、箱根で、温泉旅行等の娯楽に興じた。

 更に本阿弥光悦、本因坊算砂が、招かれていた。

 皆川広照の投降の際、共に茶人の山上宗二が投降してきた。

 山上宗二は、豊臣秀吉は、勘気に触れて逃亡し、北条氏に世話になっていた身であった。

 利休の執り成しによって、秀吉は、山上宗二を許したが、茶席を設けた際に不作法があり、山上宗二は、処刑された。

 5月27日、包囲の陣中にて、堀秀政が、病死した。

 堀秀政は、織田信長の家臣で、その死後、豊臣秀吉に従い、越前国の北ノ庄城の主になっていた。

 北条氏政は、北方軍の進軍を阻害するため、庇護していた、相木房頼、伴野貞長奈等を信濃国に潜入させると、佐久郡の白岩城で挙兵させた。

 しかし、徳川家康が、松平康国を派遣すると即座に鎮圧され、伴野は、敗死し相木は、上野国方面に逃走している。

 北条氏政は、碓氷峠に与良与左衛門を配して、豊臣秀吉軍の侵攻を阻害しようとした。

 前田軍及び、・上杉軍等の北国勢と、途中で合流した、信濃国勢を主力とする、北方軍は、碓氷峠を越えて、関東平野・上野国に侵攻しようとした。