しかし、同時刻、船によって、琵琶湖を渡っていた丹羽長秀が、「一度坂本に戻るべし」との部下に反対されたが、進路を変更して、海津への上陸を敢行した事で、戦局は一変。

 丹羽長秀の率いる、二千軍勢は、撤退中の桑山重晴の軍勢と鉢合わせし、両軍は、合流し、賤ヶ岳周辺の佐久間盛政の軍勢を撃破し、賤ヶ岳砦の確保に成功する。

 同日、羽柴秀吉は、大垣城にいたが、大岩山砦等の落城を知ると、即座に軍を返した。

 羽柴秀吉の軍は、14時に大垣城を出て、木ノ本までの52キロの距離を5時間で移動した。

 羽柴秀吉が、明智光秀を討った、中国大返しに続く、美濃大返しである。 

 佐久間盛政は、翌日の未明に秀吉らの大軍に強襲されたが、奮闘した。

 羽柴秀吉は、佐久間盛政の隊を直接、崩せないと判断すると、盛政の実弟、柴田勝政に攻撃対象を変更し、勝政を盛政が、救援することで、両軍は、激戦となった。

 激戦の最中、茂山に布陣していた、柴田側の前田利家の軍勢が、突如として戦線離脱した。

 その結果。後方の守りの陣形が崩れ、佐久間盛政の隊の兵の士気が下がった。

 そのため、前田利家と対峙していた、羽柴秀吉の部隊が、柴田軍勢への攻撃に加わった。

 更に柴田側の不破勝光・金森長近の軍勢が、退却したため、佐久間盛政の軍を撃破した。

 秀吉の軍勢は、柴田勝家の本隊に殺到した。

 柴田勝家の軍勢は、大軍の攻撃に崩れたため、遂に、勝家は、越前国の北ノ庄城に向けて退却した。

 勝家勝家は、北ノ庄城に逃れたが、4月23日には、前田利家を先鋒とする、羽柴秀吉の軍勢に包囲されて、翌日に妻のお市達と共に自害した。

 北ノ庄城の戦いである。

 柴田勝家の後ろ盾を失った、美濃方面の織田信孝は、羽柴秀吉に味方した、兄の織田信雄に岐阜城を包囲されて降伏し、尾張国内海に移された。

 4月29日、織田信雄の使者より、織田信孝は、切腹を命じられ、自害した。

 滝川一益は、更に一カ月の篭城を続けたが、遂に開城した。

 一益は、出家し、越前国大野に蟄居した。

 羽柴秀吉は、織田家の家臣であるため、織田信孝を殺害する、名分がなかった。

 そのため、織田信雄が、羽柴秀吉の意を受けて、織田信孝を切腹させたのである。

 1582年(天正十年)と翌年の1583年(天正十一年)は、日本史上、重要な年である。

 本能寺の変によって、織田信長が、死去したため、本来、織田家は、分裂して、群雄割拠の時代が、再来する、可能性は、十分にあった。

 しかし、中央では、羽柴秀吉が、信長の後継者となり、東では、徳川家康が、甲斐国・信濃国を手に入れ、大大名となった。

 織田信長の生前は、信長と徳川家康の勢力の差が、余りに大きいため、家康は、信長に臣従を強いられた。

 羽柴秀吉は、織田信長の領地の大部分を手に入れたが、徳川家康が、三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・信濃国の五カ国を治める、大大名に成長したために、家康に対して、簡単に手出しできなくなったのである。

 織田信孝の死後、織田信雄は、羽柴秀吉によって、安土城を退去させられた。

 そして、以後は、織田信雄と羽柴秀吉の関係は、険悪化する。

 羽柴秀吉は、信雄の家臣の津川義冬・岡田重孝・浅井長時の三家老を懐柔し、傘下に組み込もうとした。

 織田信雄は、徳川家康と同盟を結び、1584年(天正十二年)3月6日に親秀吉派の三家老を処刑した。