鳶ヶ巣山攻防戦によって、武田軍は、武田勝頼の叔父の河窪信実を筆頭に、三枝昌貞、五味高重、和田業繁、名和宗安、飯尾助友等の家臣が討死している。
武田の敗残兵達は、本隊への合流のため、豊川を渡って、退却するが、酒井忠次の奇襲隊の猛追を受けたため、長篠城の西岸・有海村にて、香坂源五郎が、討ち取られている。
5月21日早朝、鳶ヶ巣山攻防戦の大勢が、決したと思われる頃の設楽原では、武田軍が、織田・徳川軍を攻撃。戦闘は、昼過ぎまで、約8時間続いた。
前述の通り、武田四天王の山県昌景、馬場信春、内藤昌秀達は、武田勝頼に撤退を進言したが、勝頼は、決戦を選び、戦国最強と言われる、武田軍の騎馬隊を突撃させたのである。
織田軍の鉄砲隊によって、武田軍の騎馬隊は、次々に撃たれて、戦死した。
史上有名な、織田信長による、鉄砲隊の三段構えである。
鉄砲の弱点は、弾を込めるのに、時間を要し、その間、無防備になることであった。
織田信長は、鉄砲隊を三組に分けると、正面を次々に入れ替えることによって、武田の騎馬隊に突撃の猶予を与えなかったのである。
織田信長の作戦は、敵が攻め寄せた時に鉄砲を放つため、自分からは、攻撃できない。
武田勝頼が、騎馬隊を突撃させなければ、武田軍の敗北はなかったと言える。
武田勝頼は、完全に判断を誤ったのである。
長篠の戦いの後、武田氏の勢力が、急速に衰退したことを考えると、織田と武田の分水嶺の判断であった。
織田・徳川軍は、武田軍を追撃し、鳶ヶ巣山攻防戦も含め、一万人以上の犠牲を出した。
織田・徳川軍の勝利によって、合戦は終結した。
織田・徳川軍は、戦死者は、数少ない。
武田軍の戦死者は、譜代家老の内藤、山県、馬場を始めとして、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉丹後守等である。
武田勝頼は、父の信玄から、受け継いだ、重臣、指揮官を失い、甚大な被害を出した。
武田勝頼は、わずか、数百人の旗本に守られながら、一時、菅沼定忠に助けられ、武節城に篭ったが、信濃国の高遠城に後退した。
上杉の抑え部隊、一万を率いていた、海津城代の高坂昌信は、上杉謙信と和睦し、勝頼を出迎えて、合流して、帰国したと言われる。
徳川家康は、長篠の戦勝に乗じて、光明城、犬居城、二俣城を取攻略し、殊に諏訪原城を奪取したことで、高天神城の大井川沿いの補給路を封じた。
武田信玄による、上洛戦後、徳川家康は、武田軍によって、圧迫され、劣勢に立たされていたが、長篠の戦いの勝利で、徳川軍と武田軍の立場は、逆転し、遂に徳川家康が、優位に立ったのである。
同年8月、武田勝頼は、長篠の戦いで、戦死した、山県昌景の後任として、穴山梅雪を江尻城代とし、駿遠国の防衛を委ねた。
徳川家康は、更に、小山城を包囲するが、同月、武田勝頼は、一万三千の兵を率いて、小山城へ出兵すると、徳川軍は、撤退した。
二俣城、高天神城への補給を終えると、武田勝頼は、甲府へと帰還した。
翌年、1576年(天正四年)春、武田勝頼は、高天神城救援のために遠江国へ出兵すると、徳川軍の横須賀城(静岡県掛川市)を攻めた。
翌年、徳川家康が、高天神城を攻めると、武田勝頼は、江尻城へ入った。
武田勝頼は、小山城を経て大井川を越えると、10月20日に馬伏塚城で、徳川軍と抗戦するが、10月25日に撤兵した。