翌年の1538年(天文七年)、里見義堯は、第一次国府台合戦では、足利義明を大将とし、北条氏綱と戦った。

 しかし、足利義明は、里見義堯の戦略を聞かなかったため、義堯は、足利義明を見捨て、交戦せずに戦場を離脱した。

 北条氏綱の軍勢は、小弓城を陥落させて真里谷城を押さえると、真里谷信応を降伏させて、信隆を真里谷氏当主にした。

 その結果、北条氏の勢力は、下総国に浸透した。

 一方、足利義明の戦死と真里谷信隆の復帰によって、上総国南部は、勢力図が一変し、権力の「空白域」と化した。

 里見義堯は、第一次国府台合戦で、無傷に近かったため、上総国に進出し、真里谷氏の支配下にあった、久留里城・大多喜城等を占領して、房総半島の大半を手中に収めることになった。

 里見義堯は、上総国の久留里城を本拠とし、安房里見氏の最盛期を築き上げたのである。

 1550年(天文十九年)には、彦部雅楽頭は、室町幕府の十三代将軍、足利義輝の命を受け、里見氏と北条氏との仲介の労を取るために関東に下向した。

 里見義堯は、その取り成しに満足した旨の手紙を送っている。

 既に、北条氏は、三代目の北条氏康の時代であった。

 1552年(天文二十一年)、北条氏康の策動によって、里見義堯の傘下の国人領主の離反が、発生し、二年後には、北条氏康、今川義元、武田信玄との間で、三国同盟が締結された。

 北条氏康は、1553年(天文二十二年)以降、北条綱成や北条氏尭を派遣して、房総半島に連年、侵攻すると、沿岸の金谷城、佐貫城を攻略した。

 そのため、1555年(弘治元年)には、里見義堯は、上総国の西部の大部分を北条氏康に奪われることになった。

 里見義堯は、それに対し、北条氏康に味方した、国人勢力の抵抗を鎮圧し、奪われた領土の奪還を図った。

 同時に、北条氏康の宿敵、越後国の上杉謙信と手を結ぶと、太田氏・佐竹氏・宇都宮氏等と同調して、北条氏康に対抗した。

 1560年(永禄三年)、北条氏康が、里見領に侵攻すると、里見義堯は、久留里城に籠城し、上杉謙信の援軍を得て、勝利を収めた。

 その後、里見義堯は、北条氏康への反攻を開始し、上総国西部の大部分を取り戻した。

 1562年(永禄五年)年、里見義堯は、剃髪して入道し、家督を息子の義弘に譲って、隠居するが、実権は、握り続けている。

 1564年(永禄七年)、里見義堯は、北条方の太田康資の内通に応じて、息子の義弘と共に千葉氏の重臣、高城胤吉の勢力圏の下総国国府台に侵攻した。 

 第二次国府台合戦である。

 里見軍は、緒戦では、北条方の遠山綱景・富永直勝を討ち取るが、油断して、翌日早朝、北条氏康の奇襲と北条綱成との挟撃を受け、重臣の正木信茂が、討死する等、敗北した。

 その結果、里見義堯・義弘の父子は、上国総の大半を失い、安房国に退却し、里見氏の勢力は、一時的に衰退することとなる。

 しかし、その後は、里見義弘を中心に、里見氏は、安房国において、勢力を養い、徐々に上総国の南部を奪回し、1566年(永禄九年)頃には、久留里城・佐貫城等失地を回復していたのである。

 北条氏康は、里見義弘の勢力回復に対し、上総国北部の勢力線を維持し、佐貫城の北方に位置する三船山の山麓に広がる三船台に砦を築いて、対抗した。

 1567年(永禄十年)に、里見義弘は、三船台に陣取る、北条の軍勢を攻囲した。

 北条氏康は、それを知ると、嫡男の北条氏政及び、太田氏資等を援軍として向かわせた。