1810年2月16日、ウィーンにおいて、2月7日のナポレオン及び、マリー・ルイーズの婚姻契約が、批准された。
2月23日、ナポレオンは、未だ、会ったことのない、マリーに対して、手紙を送った。
ナポレオンは、マリー・ルイーズが、結婚を嫌がっていることを知っているのか、マリーを幸せにするとの内容の手紙を書き送ったのである。
3月8日、ベルティエが、ウィーンに赴き、ナポレオンの代理人として、公式に、マリー・ルイーズに結婚を申し込んだ。
3月10日、ウィーンにおいて、代理人を立て、ナポレオンとマリー・ルイーズの結婚式が、行われた。
そして、マリー・ルイーズは、オーストリアの首都、ウィーンを離れ、フランスの首都、パリへと向かった。
3月27日、ナポレオンは、マリー・ルイーズを出迎えるため、クルセルに赴き、新皇后、マリーとの初夜を過ごした。
ナポレオンの当初の再婚の目的は、後継者を産ませるため、そして、ヨーロッパにおいて、最高の血統の一つである、ハプスブルク家の血統であった。
しかし、ナポレオンは、真剣に、マリーを愛することになったのである。
ナポレオンは、ジョセフィーヌと離婚し、マリー・ルイーズとの結婚を済ませ、即座にイベリア半島に赴くつもりであった。
しかし、ナポレオンは、マリーに夢中になったため、半島戦線の指揮を執る予定を遅らせた。
ナポレオンの巨大帝国は、ナポレオンの行動のみに依存していたが、ナポレオンは、マリーのために、「結婚の罠」に捕らえられた。
4月1日、ナポレオンとマリー・ルイーズは、ルーブル宮殿の礼拝堂で、結婚式を挙げた。
翌日の4月2日、二人の結婚は、フェシュ枢機卿により、祝別された。
マリーは、実際に、ナポレオンに会うまでは、ナポレオンを嫌悪していた。
ナポレオンは、マリーを失うことを恐れて、マリーの機嫌を損ねないように、必死になっていた。
マリー・ルイーズは、ナポレオンと共に、日々を過ごすようになると、ナポレオンが、自分に対して、非常に優しかったために、心を許し、ナポレオンを愛するようになった。
ナポレオンの必死の愛情が、マリーの愛情を得ることに成功したのである。
マリー・ルイーズは、後に、友人に宛てて、手紙を書いている。
「ウィーンでは、私が、不安の中で暮らしていると思っているでしょう。しかし、事実は違います。
私は、少しも、ナポレオンを怖いと、思っていません。寧ろ、ナポレオンが、私を怖がっているのではと、最近、思い始めました」。
マリーは、パリで、幸せに暮らしていたのである。
ジョセフィーヌは、社交的で、常に大勢の女官達と談笑していたが、マリー・ルイーズの私室に入れるのは、前年、アスペルン・エスリンクの戦いにて、戦死した、帝国元帥、ジャン・ランヌの妻、女官長のモンテベロ夫人と、衣装係長のリュセイ夫人等、限られた、女性のみで、マリーの部屋は、常に静かであった。
ハプスブルク家の皇女であるが、マリーは、慎ましく、育てられたため、服及び、宝石に関心がなかった。
そのため、ジョゼフィーヌの皇后時代、大儲けをした、商人の間では、マリー・ルイーズは、評判が悪かったと言われる。
更に、マリーは、ボナパルト家の女性、ナポレオンの妹達とは、打ち解けられなかった。