7月9日、スペイン軍のラペーニャ将軍の師団は、エル・カルピオからポルクナにかけて、展開され、アンダルシア軍は、フランス軍に対し、示威を始めた。

 カスターニョス将軍は、ラペーニャ及び、ヨーンスの軍をグアダルキビール川沿岸において、東西に掛けて展開し、アンドゥハルで、デュポン将軍の軍勢に接近した。

 クピニー師団は、ビリャ・ヌエバへ進み、レディングは、メンギバルへと強行軍して、北のバイレンへ転進する計画を取り、デュポン将軍を背後から攻撃して、山脈への退路を断つ作戦に出た。

 まず、東へ進んで、ハエンに到着した、レディングは、7月2日~3日、フランス軍の右翼を猛攻し、第3スイス連隊にカッサーニュ旅団への攻撃を命じた。

 スペイン軍は、死傷者、1千5百人の損害を出して、撃退されたが、孤立した、フランスの旅団は、危険を感じ、グアダルキビールから、バイレンへ撤退、メンギバルの舟乗り場の守備に数個中隊を残すのみだった。

 レディングは、7月13日にメンギバルを侵攻すると、苦戦の末に、リジェ=ベレーのフランス軍を追い出した。

 しかし、ヴィーデル師団が、現れると、スペイン軍は、即座に撤退し、メンギバルは、フランス軍に再占領された。

 翌日、クピニーは、ビリャ・ヌエバで、フランスの哨戒部隊を攻撃した。

 カスターニョスは、7月15日にアルホニーリャの丘に着き、砲台を築くと、アンドゥハルのデュポン軍に向けて、砲撃を始めた。

 同じ頃、モルヘオン率いる、4千人のスペインの民兵が、マルモレホ近くの浅瀬で渡河し、デュポン将軍を背後から、攻撃したが、フランスの大隊に易々と跳ね返されて、山中へと四散した。

 デュポン将軍は、敵軍の数に危険を感じ、ヴィテール将軍に援軍を要請したが、ヴィーデルは、メンギバルが、危険ではないと判断し、夜中に自軍全軍で、出発した。

 ヴィーデル師団が、到着したことにより、アンドゥハルは安泰となったが、フランス軍の右翼は、逆に危機に陥り、リジェ=ベレー将軍は、スペイン軍のレディングとの戦いで、多勢に無勢に苦しむことになる。

 7月16日には、デュポン将軍及び、ヴィーデル将軍は、アンドゥハルを巡る、スペイン軍との厳しい争いを予想していた。

 しかし、カスターニョス将軍及び、クピニーは、騒がしく陽動しているだけで、積極的攻勢には、出なかった。

 一方、レディングは、自軍の砲兵にメンギバルのフェリーを陽動攻撃させつつ、スイス人連隊を上流のリンコンの浅瀬で渡河させ、続いて、メンギバルを包囲して、フランス軍のリジェ=ベレー旅団を撃破した。

 フランスのゴベール将軍は、その隙を埋めるべく、バイレンから、移動したが、頭部を銃撃されて、死亡した。

 コベール軍の指揮を引き継いだ、デュフォア将軍は、スペイン軍に反撃したが、撃退された。

 デュフォア将軍は、胸甲騎兵に何度か突撃させ、レディングの目を逸らすと、自身は、バイレンへと撤退した。

 グアダルキビール川の北岸を占領して、フランス軍を撃退した、レディングが、自軍の孤立を恐れて、突如、南岸へ撤退した。

 同じ頃、ヴァルデカーニョス中佐のゲリラ軍は、デュフォア軍の前に現れて、その哨兵を撃破して、王の道を脅かした。