マレンゴの戦いの後、1800年11月1日、キリスト教の全ての聖人を祝福する日である、万聖祭の日に、パリのパレ・ロワイヤルの本屋の店先に、『カエサル、クロムウェル及び、マンクとナポレオンの比較』と題した、匿名の小冊子が、一斉に並んだ。
その内容は、革命の精神を裏切った、クロムウェル、マンクと異なり、ナポレオンは、革命の精神を受け継ぎながら、国内に秩序を、国外に和平をもたらした、優れた指導者で、ローマのカエサルに比較さるべき人物である。
故に、カエサルと同様に、ナポレオンに、帝位への道を開くべきではないかとの記述であった。
クロムウェルは、イングランドのピューリタン革命の指導者で、議会が、国王である、チャールズ1世を処刑した後、アイルランドを征服し、スコットランドに侵攻した。
更に、武力議会を解散して、護国卿となり、事実上、独裁政治を行った。
ジョージ・マンクは、クロムウェルに従い、アイルランド征服、スコットランド侵攻に参加し、イングランド共和国の実力者となった。
しかし、クロムウェルの死後、国内が、混乱すると、チャールズ2世を擁立して、王政復古に尽力した。
小冊子は、百数十年前のイングランド革命の指導者、クロムウェルは、戦争をもたらし、マンクは、王政復古を実現して、革命の精神を裏切ったと非難していた。
それに対して、ナポレオンは、王党派との和平、様々な改革によって、国内に秩序をもたらした。
カエサルは、共和制末期に、ポンペイウスとの内戦に勝利し、様々な改革を断行して、ローマに秩序をもたらした、優れた指導者であった。
同時に、終身独裁官に任命されて、独裁的権力を握り、ローマに帝政の道を切り開いた。
小冊子は、クロムウェル及び、マンクを否定しているが、カエサルを英雄視している。
そして、ナポレオンは、クロムウェル、マンクとは異なり、カエサルと同様の英雄のため、ナポレオンを皇帝の座に就けるべきではないかと主張していたのである。
この小冊子は、文人のフォンテーヌが、書いたのであるが、真の作者は、内務大臣で、ナポレオンの弟である、リュシアン・ボナパルトであった。
ナポレオンは、小冊子の存在を知ると、フーシェを呼んで、作者の逮捕を命じた。
ナポレオンは、自分に皇帝の座への野心があると思われることを、恐れていたのである。
ナポレオンは、フーシェに、小冊子の内容に対する、民衆の反応を訪ねた。
フーシェは、パリの民衆は、ナポレオンの帝位への野心を、危険と判断し、また、全国の知事からも、同様の報告が、届いていることを、ナポレオンに報告した。
ナポレオンは、著者を探し出し、逮捕することを命じたが、フーシェは、不可能であると回答した。
フーシェは、小冊子が、内務大臣のリュシアンが、フォンテーヌに命じて、書かせたことを、既に、把握していたのである。
しかし、小冊子の真の作者は、ナポレオンであった。フーシェは、リュシアンの命令で、書かれたことを割り出すと、リュシアンに説明を求めた。
リュシアンは、フーシェに対し、原稿を見せたが、そこには、ナポレオンの筆跡の訂正が、書かれていたのである。
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