信長と石山本願寺の和睦後、柴田勝家は、一向一揆の司令塔、金沢御堂を攻め滅ぼして、軍勢を北加賀及び、越中国との境界に進めた。

 1580年(天正八年)11月に、柴田勝家は、一向一揆を制圧して、11月、遂に加賀国を平定する。

 1488年(長享二年)の長享の一揆により、加賀国の本願寺門徒による、支配の開始以来、九十二年間、一揆持ちの国であった、加賀国が、遂に、戦国大名の領地となったのである。

 柴田勝家は、加賀国を平定後、能登国・越中国に進出した。

 翌年、1581年(天正九)2月28日、与力の前田利家を筆頭に越前衆を率いて、上洛し、信長の京都御馬揃えに参加している。

 また、対上杉政策のためか、陸奥国の伊達氏の家臣、遠藤基信と緊密に連絡を取り合い、伊達氏との外交政策の一端を担っていた。

 前述の通り、前田利家・佐々成政、不破光治は、柴田勝家が、信長に越前国四十九万石を与えられると、越前国府中付近の二郡を与えられ、勝家の目付に任命された。

 そのため、三人は、越前国府中への在任の間、府中三人衆と呼ばれた。

 府中三人衆の当初の目的は、柴田勝家の目付であったが、加賀国の一向一揆、越後国の上杉謙信との戦いにより、勝家の与力としての性格が、強まった。

 しかし、府中三人衆は、勝家の指揮下に固定されたわけではない。

 1578年(天正六年)、荒木村重が、信長に対し、謀反を起こした際、三人は、勝家の指揮下を離れ、有岡城の戦いに参加している。

 また、勝家の指揮下には、佐久間盛重の同族、佐久間盛政がいる。

 盛政の父の盛次は、盛重の従兄弟であり、盛政の母は、勝家の姉であったため、盛政は、勝家の甥に当たる。

 故に、佐久間盛政は、勝家の与力であると同時に、一門衆であった。

 前述の通り、1578年(天正六年)に上杉謙信が、死去すると、上杉家の家督相続争い、御館の乱が、勃発する。

 上杉景勝は、謙信の宿敵であった、武田信玄の息子、武田勝頼と甲越同盟を結び、信玄の娘の菊姫を正室に迎えた。

 甲越同盟の結果、上杉景勝は、上杉景虎に勝利して、上杉家の家督の継承に成功する。

 武田勝頼は、信長の敵であったため、上杉景勝と武田勝頼の同盟によって、織田信長と、越後国の上杉氏との敵対関係は、継続することになった。

 上杉謙信の死後、織田信長は、北陸地方を支配するために、上杉家を滅ぼそうとする。

 1581年(天正9年)の荒川の合戦以後には、表面的には、信長に仕えているが、上杉氏に内通していた、願海寺城主の寺崎盛永、木舟城主の石黒成綱等が、信長によって、次々と粛清され、北陸地方における、信長の基盤が、形成されていった。

 1582年(天正十年)2月、信長は、甲州征伐を行って、武田勝頼を自害に追い込んだ。

 平安時代以来続いた、清和源氏の名門、甲斐武田家は、遂に滅亡したのである。

 信長は、同年3月に魚津城を囲んだが、神保家の実権を握る、小島職鎮が、上杉景勝と手を組み、神保長住の富山城を急襲し、城を乗っ取った。

 故に、3月11日、柴田勝家・佐々成政・前田利家・佐久間盛政は、魚津攻めを中止し、信長は、勝家達に富山城を攻撃させ、奪還に成功した。

 その後、総勢、四万と言われる、柴田勝家の軍勢は、魚津城への攻撃を再開し、三千八百の上杉軍は、籠城した。

 

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