811年、カール大帝の妹、シェル女子修道院長のギゼラが、死去した。更に、廃嫡した、長男のピピンが、幽閉先のプリュム修道院において、死去している。
そして、同年12月、カール大帝の次男、カールが、病死してしまったのである。
次男のカールは、カール大帝死後のフランク帝国の中核部分を継承する、予定であった。
前年のイタリア王ピピンの死に続く、次男のカールの死は、806年の「王国分割令」を完全に空文化した。
最早、カール大帝の息子は、アキタニア王のルイのみとなった。
カール大帝は、イタリア王ピピンの遺児、ベルンハルトをフルダ修道院に送っていたが、812年には、修道院から、呼び寄せ、自分の代理人として、イタリアの統治を委ねた。
更に翌年の813年には、ベルンハルトにイタリア「王」の称号を与えたのである。
ベルンハルトは、ピピンの遺児、カール大帝の孫であるが、庶子であった。カトリックは、庶子の王位継承を認めていない。
しかし、カール大帝は、孫を溺愛したため、イタリア王に任命したのである。
その結果、カール大帝の死後、ベルンハルトは、悲劇に襲われる。
813年9月10日、カール大帝は、アーヘンに、重臣達を招集し、帝国会議を開催した。
そして、存命する、唯一の息子、アキタニア王のルイを共同皇帝に任命した。
共同皇帝は、ローマ帝国以来の制度で、ビザンツ帝国は、その制度を継承している。
9月11日、アーヘンの宮廷において、ルイの皇帝戴冠式が、挙行された。カール大帝は、自身の手で、ルイに帝冠を授けた。
この儀式に、ローマ教皇レオ3世は、参列していない。カール大帝の次の皇帝は、ローマ教皇とは、無関係に決定された。
更に、皇帝戴冠式は、イタリアの都市、ローマではなく、「新しいローマ」と呼ばれた、アーヘンにおいて、挙行された。
カール大帝は、ローマ教皇によって、皇帝に戴冠されたが、次のフランク「皇帝」を決めるのは、現皇帝であることを、内外に示したのである。
イタリア王ピピン及び、次男のカールの死によって、フランク帝国は、「偶然」の結果、分割相続を免れた。
この時、「帝国」は、「唯一不可分」の概念が、生まれたと考えられる。
フランク帝国は、唯一の王子、ルイによって、継承されなければならなかった。
しかし、「帝国」の内部に、「王国」が、存在することは、問題にしなかった。
「皇帝」は、「諸王の王」を意味するため、「皇帝」の宗主権の許に、「王」が、存在することを認めた。イ
タリア王のベルンハルトは、皇帝ルイに従属する、「王」であった。
806年の「王国分割令」は、次男のカール、イタリア王ピピン、アキタニア王ルイの三人の王子の間に、地位の上での順位はなかった。
しかし、フランク皇帝のルイと、イタリア王のベルンハルトは、明らかに、ルイが、上位の存在であった。
カール大帝は、イタリアの征服後に、「フランク人の王にして、ランゴバルト人の王」を称している。
即ち、フランク人の王国と、ランゴバルト人の王国は、別の王国であると明確に示唆しており、皇帝戴冠後も、「ランゴバルト人の王」の称号は、変わらなかった。
ベルンハルトは、「ランゴバルト人の王」になったが、ルイの宗主権を認めていたため、「帝国」は、唯一不可分の存在であった。
二人の王子の死という、「偶然」が、カール大帝の築き上げた、フランク「帝国」の統一を維持したのである。
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