クレベールの暗殺後、エジプト遠征軍最高司令官に就任したのは、ムヌー将軍であった。

 1800年の春、イギリス政府は、アバクロンビーに、15千人部隊を預けると、エジプトのフランス軍を追い出すべく、地中海へ送り出した。

32日、イギリス軍は、キースの地中海艦隊に守られて、エジプトの海岸に到着した。

イギリス軍は、38日、アブキール要塞からの砲撃を受けつつ、上陸した。 

イギリス軍のムーアの前衛部隊が、フランス軍前線を蹂躙し、イギリス軍が、勝利する。

アバクロンビーは、その後の3日間で、大砲などを上陸させる。

フランス軍の司令官、ムヌー将軍は、エジプト全体では、24千人の部隊を保有していたが、アブキール要塞が、318日に陥落した時、未だ、1万人が、アレキサンドリアへの行軍中であった。

アバクロンビーは、前進速度を緩めていたが、この時点では、アレキサンドリアからは、5キロメートル以内に迫っていた。

ムヌーは、319日、アレキサンドリアに到着すると、翌日の320日の夜には、イギリス軍への攻撃を開始した。

ムヌーは、まず、イギリス軍左翼に陽動を行い、続いて、2個部隊が、イギリス軍の右翼と中央右側を攻撃した。

アバクロンビーが、到着するまでの間、指揮を取った、ムーアは、フランス軍の陽動に気付き、敵の主力攻撃に対して、予備軍を投入した。

戦闘は、翌日の321日夜明けまで、続いたが、イギリス軍は、頑強に抵抗を続けた。

フランス軍は、3千人の損害を蒙り、夜明けの後に、一旦、退却した。

イギリス軍の損害は、14百人であったが、アバクロンビーが、夜明けの直前に重傷を負った。

戦闘の参加者は、フランス軍、1万人、イギリス軍、12千人であった。

この勝利で、イギリス軍の評判は、回復し、士気は上がり、フランス軍の士気は、大きく落ち込んだ。

ムヌー将軍は、フランス軍をアレキサンドリアに退却させる。

アバクロンビーの後任のイギリス軍の指揮官、ハッチンソンは、アレキサンドリアへの攻撃を後回しにして、カイロを先に攻撃することを決意する。

4月中旬、アレキサンドリアのフランス軍を監視するための65百人を残して、ハッチンソンは、ナイル川を遡った。

61日、ハッチンソンの部隊は、オスマン・トルコ軍と合流し、連合軍の兵力は、約12千人に達した。

カイロを守備する、フランス軍のベリヤールの指揮下には、13千人の兵力があったが、その大半は、病人であったため、実兵力は、5千人に過ぎなかった。

カイロのフランス軍は、抵抗の力を完全に失って、627日には、降伏した。

イギリス軍は、再度、アレキサンドリアに戻り、827日から包囲を開始する。

そして、831日、ムヌー将軍は、45百人のフランス軍と共に、イギリス軍に降伏した。

フランス軍は、イギリスの船に乗って、915日までに、エジプトを去り、フランス本国へと送り返されたのである。

クレベールの遺体は、一度、フランス本国に送られたが、ナポレオンは、クレベールとそのの墓が、共和制の象徴となるのを恐れ、遺体をシャトー・ディフに置くように命じた。

十八年後、ルイ18世が、クレベールの遺体をストラスブールへの埋葬を許可した。

現在、ストラスブールのグラン・ディルにクレベールの銅像が立っている。

 

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