クレベールの暗殺後、エジプト遠征軍最高司令官に就任したのは、ムヌー将軍であった。
1800年の春、イギリス政府は、アバクロンビーに、1万5千人部隊を預けると、エジプトのフランス軍を追い出すべく、地中海へ送り出した。
3月2日、イギリス軍は、キースの地中海艦隊に守られて、エジプトの海岸に到着した。
イギリス軍は、3月8日、アブキール要塞からの砲撃を受けつつ、上陸した。
イギリス軍のムーアの前衛部隊が、フランス軍前線を蹂躙し、イギリス軍が、勝利する。
アバクロンビーは、その後の3日間で、大砲などを上陸させる。
フランス軍の司令官、ムヌー将軍は、エジプト全体では、2万4千人の部隊を保有していたが、アブキール要塞が、3月18日に陥落した時、未だ、1万人が、アレキサンドリアへの行軍中であった。
アバクロンビーは、前進速度を緩めていたが、この時点では、アレキサンドリアからは、5キロメートル以内に迫っていた。
ムヌーは、3月19日、アレキサンドリアに到着すると、翌日の3月20日の夜には、イギリス軍への攻撃を開始した。
ムヌーは、まず、イギリス軍左翼に陽動を行い、続いて、2個部隊が、イギリス軍の右翼と中央右側を攻撃した。
アバクロンビーが、到着するまでの間、指揮を取った、ムーアは、フランス軍の陽動に気付き、敵の主力攻撃に対して、予備軍を投入した。
戦闘は、翌日の3月21日夜明けまで、続いたが、イギリス軍は、頑強に抵抗を続けた。
フランス軍は、3千人の損害を蒙り、夜明けの後に、一旦、退却した。
イギリス軍の損害は、1千4百人であったが、アバクロンビーが、夜明けの直前に重傷を負った。
戦闘の参加者は、フランス軍、1万人、イギリス軍、1万2千人であった。
この勝利で、イギリス軍の評判は、回復し、士気は上がり、フランス軍の士気は、大きく落ち込んだ。
ムヌー将軍は、フランス軍をアレキサンドリアに退却させる。
アバクロンビーの後任のイギリス軍の指揮官、ハッチンソンは、アレキサンドリアへの攻撃を後回しにして、カイロを先に攻撃することを決意する。
4月中旬、アレキサンドリアのフランス軍を監視するための6千5百人を残して、ハッチンソンは、ナイル川を遡った。
6月1日、ハッチンソンの部隊は、オスマン・トルコ軍と合流し、連合軍の兵力は、約1万2千人に達した。
カイロを守備する、フランス軍のベリヤールの指揮下には、1万3千人の兵力があったが、その大半は、病人であったため、実兵力は、5千人に過ぎなかった。
カイロのフランス軍は、抵抗の力を完全に失って、6月27日には、降伏した。
イギリス軍は、再度、アレキサンドリアに戻り、8月27日から包囲を開始する。
そして、8月31日、ムヌー将軍は、4千5百人のフランス軍と共に、イギリス軍に降伏した。
フランス軍は、イギリスの船に乗って、9月15日までに、エジプトを去り、フランス本国へと送り返されたのである。
クレベールの遺体は、一度、フランス本国に送られたが、ナポレオンは、クレベールとそのの墓が、共和制の象徴となるのを恐れ、遺体をシャトー・ディフに置くように命じた。
十八年後、ルイ18世が、クレベールの遺体をストラスブールへの埋葬を許可した。
現在、ストラスブールのグラン・ディルにクレベールの銅像が立っている。
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