キルペリクとフレデグントの間には、リグント、クロドベルト、サムソン、タゴベルト、テウデリクの四男一女が、生まれていた。

 フレデグントは、キルペリクの前妻、アウドムラの息子の最後の一人、クローヴィスを奸計により、謀反の罪を被せ、殺害した。

 更に、修道院に入っていた、アウドヴェラに刺客を送り、暗殺する。

 キルペリクの前妻とその息子達、全てを殺害することで、ネウストリアの王位継承者は、フレデグントの息子達に確定した。

 しかし、彼女の息子達は、疫病などにより、次々と死去してしまう。

 584年、キルペリクとフレデグントの末子、クロタールが生まれるが、その四カ月後に、キルペリクは、不可解な死を遂げる。

 狩猟から帰ったところを、刺客に殺害されたのである。

 犯人は、侍従のエベルルフと宣言されたが、真相は、不明のままである。

 フレデグントは、数々の悪行によって、多くの恨みを買っていたため、キルペリクの死後、復讐を恐れ、夫の財産を抱えて、パリの大聖堂に逃げ込んだ。

 クロタール1世の息子の内、最後に生き残った、ブルグント王グントラムは、フレデグント及び、わずか、生後四か月のネウストリアの王位継承者、クロタール2世を庇護した。

 アウストラシア王のキルデベルト2世は、若く、ネウストリア王のクロタール2世は、幼いため、グントラムが、フランク王国全体の長老となった。

 彼は、二人の甥を庇護したが、二人の母である、ブルンヒルドとフレデグントの間の憎しみは、消えなかった。

 ブルンヒルドは、キルデベルトの摂政に復帰後、アウストラシアの女王として、君臨し、旧ローマ街道の整備及び、多くの教会、修道院、要塞を建てた。

 また、国庫を立て直して、王国の軍隊を再編成するなど、優れた、行政的手腕を発揮した。

 ブルグント王グントラムは、息子に恵まれなかったため、ブルンヒルドは、彼を説得し、577年、キルデベルトをグントラムの跡継ぎにすることに成功する。

 アウストラシア王国の貴族達は、ブルンヒルドの強権的な改革に反発し、キルデベルトの暗殺を企てた。

 計画は、事前に露見し、失敗したが、グントラムは、ブルンヒルド及び、キルデベルトの二人の息子、テウデベルトとテウデリクを、自分の宮廷に避難させるように、キルデベルトを説得した。

 キルデベルトは、それに応じ、母と二人の息子をブルグントに送った。

 587年、グントラム、キルデベルト及び、ブルンヒルドは、キルデベルトが、ブルグントの王位継承者であり、グントラムの生存中は、アウストラシア及び、ブルグンドの両王国は、同盟関係にあると定めた、アンドロ条約を結んだ。

 592年、グントラムが、死去すると、ブルンヒルドとフレデグントの間の憎しみ合いを、制御する者がいなくなり、二人の息子、キルデベルト2世及び、クロタール2世は、戦争に突入した。

 なお、キルデベルトは、グントラムの死後、ブルグントの王位を継承したため、アウストラシア及び、ブルグントの二つの分王国の王となった。

 しかし、595年、キルデベルト2世が、死去する。

 フレデグントの暗殺との説があるが、少なくとも、母のブルンヒルドは、それを信じていた。

 ブルンヒルドは、キルデベルト2世の二人の息子、テウデベルトをアウストラシアの王に、テウデリクをブルグントの王とした。

 597年、ブルンヒルドの宿敵、フレデグントは、彼女と対立したまま、死去している。


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