甲州勝沼の戦いの後、試衛館以来の同志、永倉新八と原田佐之助は、近藤、土方達と、袂を別った。

 永倉は、新道無念流の元同門、芳賀宣道と共に靖共隊を結成、隊長は、芳賀、副隊長は、永倉と原田であった。

 靖共隊は、5月2日に江戸を脱走し、大鳥圭介の率いる、旧幕軍と合流し、幕歩兵七聯隊に付属した。

 しかし、原田は、途中の山崎宿で、隊を離れてしまう。

 離隊の理由は、不明であるが、行徳宿に行ったとも、妻子への愛着から、引き返したとも言われる。

 原田は、京において、商家の娘、まさと結婚し、長男の茂が、生まれている。

 原田は、有名な愛妻家であったが、新選組が、伏見奉行所に移転した時が、まさとの永遠の別れとなった。

 原田は、その後、彰義隊に接触すると、5月15日の上野戦争に参加する。

 その戦闘で、被弾し、搬送された、神保山城守邸で、息を引き取った。享年、二十九歳。

 なお、原田は、満州に渡って、馬賊になったとの伝承もある。

 靖共隊は、旧幕軍として、小山の戦い、安塚の戦い、宇都宮城の戦いと、北関東各地を転戦する。

 一方、土方は、永倉と同様に北関東に転戦していたため、二人は、同じ戦場で、戦っていたはずであるが、再会したかは、定かではない。

 靖共隊は、日光より、会津領田島宿へ入り、南下中の会津軍と合同で、今市口、藤原口に戻ると、戦いを続けた。

 8月21日、永倉は、会津藩で治療を受け、全快した、隊士達を、連れ帰るため、芳賀と共に会津城下へ向かった。

 22日、城下の民家に宿泊したが、翌朝、母成峠を突破した、新政府軍が、城下に殺到したため、原隊へ戻ることにした。

 しかし、その途中の田島で、新選組を脱走した、近藤芳助を伴う、米沢藩士の雲井龍雄と出会いうと「入布新」と名乗って、米沢藩に同行する。

 11月まで、米沢城下に逗留した。米沢で、会津藩の降伏を知ると、永倉は、芳賀と共に、東京に戻った。

 翌年の1869年(明治二年)、永倉は、松前藩への帰参が許され、長倉の旧姓に復した。

 明治三年には、松前藩医の杉村松伯の娘の婿養子になると、翌年には、生まれて初めて、松前に赴いて挙式し、杉村義衛を名乗る。

 明治六年に家督を相続して杉村治備と改名後、小樽へ移住し、明治八年に東京へ戻った。

 そして、松本良順による、寿徳寺軽外墓地への新選組供養塔建立に尽力し、明治九年に、完成した。

 その間、「浪士文久報告記事」を執筆している。

 新選組の分裂後、靖共隊を結成したが、会津戦争の最中に戦線を離脱してしまったことに、後悔があったのであろう。

 新選組は、永倉の離脱後も戦い続けており、近藤も死に、土方歳三や隊士達も戦死した。

 そこに永倉の忸怩たる思いがあり、彼等の名を後に伝えるため、供養塔の建立に尽力したと思われる。

 永倉は、小樽と東京の移住を繰り返し、各地で、剣術を指導している。

 明治四十一年に隠居すると、大正二年より、小樽新聞に七十回の「永倉新八」(『新選組奮戦記』の底本)を連載する等、数々の貴重な記録を遺し、その生涯を終えた。享年、七十七歳。

 『新選組奮戦記』によって、新選組に遺恨のある、新政府の高官が流布した、「新選組は、悪の人斬り集団」との観念が崩れ、新選組の再評価の契機となったのである。


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