宝塚バウホールで
バウ・プレイ
原作/有栖川 有栖(幻冬舎文庫刊「[新版]幽霊刑事」)
脚本・演出/石田 昌也
を観てきました。
宝塚史上最強のバディ(二人組)と言っていい、
珠城りょうさん(幽霊刑事・神崎達也役)と 鳳月杏さん(霊媒刑事・早川篤役)の掛け合いが
実に見事。
ベテラン投手とベテラン捕手のバッテリーを見るような抜群の安定感。
警察学校時代の同期でイタコ(霊媒師)の血を引く「霊媒刑事(早川篤=鳳月杏)」だけが、
幽霊刑事(神崎達也=珠城りょう)とコミュニケーションできる。
それ以外のひとたちは、始終、
珠城さん(幽霊刑事)が全く見えていないように演じなければならない。
これはとても難しかったのではないかと思います。
見えるものを見えないものとして自然に振る舞うのは、
見えないものを見えるものとして振る舞うより、三段階ぐらい難しい。
まして今回、
舞台上を激しく動き回りながらいっぱいセリフを喋っている
月組のトップスターを無視。
よほど意識しないと、幽霊刑事が見えているかのように動いてしまう。
近づいてきたらぶつからないように脇へと避(よ)けてしまったり、顔を上げてしまったり。
『大晦日年越しスペシャル絶対に笑ってはいけない』シリーズなみの緊張感が必要です。
そうかと言って、あからさまに珠城さんを無視して、
「ああ珠城さんを無視しているな、そりゃそうだ、そういう設定だもんな」
と観客に悟られてもいけない。
自然に演じられるプロの役者さんたちはやっぱりすごい、
さすがタカラジェンヌと感心しました。
そんな中、一番難しく高度な演技を求められたのは霊媒刑事を演じる鳳月さんでしょう。
幽霊刑事が見えるのは自分だけ、他のひとには見えない。
このもどかしさが観客に伝わらないといけない。
技術論から言うと、
自分の役作りだけではダメで、間接的に相方の役作りもしていかないといけない。
幽霊刑事を演じる珠城さんが本当に幽霊に見えるようサポートしつつ、
霊媒刑事としての自分の個性を出さないといけない。
この役は、鳳月さんでなければ演じこなせなかったのではないかと思います。
さて、主人公の幽霊刑事。
原作と同じく、今回の芝居で一番感動的なのはラストです。
事件が解決すると、成仏できる。
でもそれは、恋人にもう会えなくなることでもある・・・
成仏したくないほど愛するひとがいるのは幸せなことだし、
それほど愛するひとの幸せのために従容と成仏するのも幸せなこと。
これはもう、愛そのものです。
幽霊刑事=神崎達也という、愛そのものみたいな男を演じられるのは、
やっぱり珠城さんなんだなあ❤️
ああいう男になれたらいいなあ、と思いましたね。
わたしだったら、成仏するのに未練たらたらだったでしょうね・・・
恋人に見えなかったとしても、恋人のそばにいたいですから。
原作の小説とは設定が微妙に違いますが(宝塚オリジナルのキャラクターもあり)、
ストーリーに生気のある起伏を作り、見るものの感情を大きく揺り動かす3つの「り」、
どきり/うらぎり/もりあがり
が満載なところはそのままのお芝居に仕上がっていて、何度も笑い、泣きました。
ありがとうございました。
※もちろん原作も素晴らしいです。ぜひ。
540ぺージ近くあって分厚いですが、とても読みやすいです。
謎解きも秀逸。
※挿入歌の「切手のないおくりもの」が劇の雰囲気にぴったり。
素晴らしい選曲でした。
※セリフのない端役のジェンヌさんたちも素晴らしかったです。
芝居の「下地=背景」にリアリティーを持たせることに成功していました。
ドラッカーの言葉、
「神々はすべてを見通しているから、どんなに難しくても、自分の仕事は完璧を期せよ」
「人間として完璧なものは到底つくることはできないが、いつもそれを追い求めるのが務めである」
を思い出しました。
端役のジェンヌさんたちに限らない、
わたしたちにしても、その人生そのものが、神々の見る一つの大きな舞台と言えなくもありません。
舞台に立っている以上、わたしたちは神々に絶えず見られ続けています。
「誰も自分には注目していないだろう、少しくらい手を抜いてもバレないだろう」と油断しているのは当人だけで、
実際は案外、いろんなひとから見られているものではないでしょうか。
ーーー
長文で本当にごめんなさい、
「幽霊刑事」を見て思ったことをもう一つだけ。
自分の思いが伝わらないこと、自分の思いが通じないことのもどかしさ
がサブテーマであるように思います。
そしてーーこれは大きな逆転ですがーー
幽霊であろうとなかろうと、
「自分の思いなんて、伝わらない、通じない。そんなもの」
さらに言えば、
「本当に大切なものに限って、伝わらないし通じない」
と受け容れられれば、大した問題ではなくなる。
人間であることの責任というのか、人間にとって大事な問題は、
「自分は幸せに生きたか」
「自分は誰かを幸せにしたか(幸せにしようとしたか)」
であって、
コミュニケーションの成立はそのための一つの手段にすぎない。
「何のためのコミュニケーションなのか?」「どうしてコミュニケーションが必要なのか?」
について自分なりの考えがないままに「話の伝え方、話の聞き方」といったスキルを学んでも、
せいぜい周囲との摩擦が減る程度ではないか(処世術としては必須ではあるでしょうが)と思うのです。
そうでなければ、幽霊となった神崎刑事の、
彼の恋人で婚約者の森須磨子刑事(天紫珠李さんが演じています)への愛は無意味ということになってしまいます。
片思いや祈りは、無意味でしょうか? 切ないだけでしょうか? 本当に?