聖なるものは無防備である 〜「バルテュス展」@京都市美術館の感想〜 | 西宮・門戸厄神 はりねずみのハリー鍼灸院 本木晋平

西宮・門戸厄神 はりねずみのハリー鍼灸院 本木晋平

鍼灸師、保育士、JAPAN MENSA(メンサ)会員/IQ149(WAIS-Ⅲ)、日本抗加齢医学会指導士、実用イタリア語検定3級。趣味は読書、芸術鑑賞、小説執筆(2019年神戸新聞文芸年間賞受賞)、スイーツめぐり、香水づくり。

2014年08月24日の日記、


「夢見るテレーズ」「決して来ない時」「美しい日々」・・・

バルテュス展のサイトには

一見不自然で、時にあられもないポーズ。緊張感に満ちた室内の情景。 しばしば誤解を生み、観る者を挑発するかのような少女像―この危うい均衡の上に成り立つ「美」が魅力です。

また 

バルテュスにとって、少女は「この上なく完璧な美の象徴」でした。

と紹介されています。

バルテュスの絵のモデルの少女たちは、扇情的に膝を立て、腕を頭や腰に当てます。
パンツや胸元が見えてもいっこう気にしていない。

どうして、こういうポーズをバルテュスは好んだのか?

わたしは

無防備であることの美しさ

を描きたかったのではないかと思っています。
誰も自分を所有しようとしない、陵辱しようとしない、性的な主従関係を築こうとしない・・・
少女は、そう言ったことはまだ経験していません。
そんなことは夢にも思わない。
世界は爽やかで涼やかなもの、善なるもので作られていると信じて疑わない。

大人になるということは、「他人を疑うこと、他人を警戒すること」を知ることです。

それは生きて行く上ではどうしても必要な処世術ですが、そのために生きているわけではないというのも真実でしょう。
窒息してしまう。なかんずく、繊細で優しい感受性の持ち主は。

「悲しい賢さ」ーー
オクシモロン(撞着語法)っぽく言えば「愚かな賢さ」を知らないのは、
どこまでも無防備でいられるのは、
神か、少女か、猫でしかありません。

バルテュスの絵の前に立つと、落ち着くのです。
朝の森にたたずんでいるときの気分です。
無防備であること、無防備でいられる空間と時間がいかに貴重でありがたいことかがよく分かります。
そこには卑猥さはなく、その対極にある高貴さ、静けさ、清潔さがあります。

バルテュスの絵すべてについて言えます。
風景画も、そこに描かれているすべてが聖なるものを宿しています。

もう一つ。
あられもない挑発的なポーズ、無防備なポーズをとることで、たくさんの三角形が生まれます。
世界は三角形でできているーーリチャード・バックミンスター・フラーにも通じるような三角形による空間分割。
ただ、フラーが科学的・思想的視座に立っていたのに対して、バルテュスは美学的・宗教的視座に立っていました。
いずれにせよ、組み合わされた三角形によって、画面に、緊張感と安定感という相反する平衡が生まれます。
消失点がいくつもある自由さーー無防備な世界に、見るわたしたちが憧れていることに気づいて、はっとするのです。
バルテュスにとって、三角形は無防備な世界を作り出すための基本単位だったのかもしれません。

展覧会ではバルテュスが最晩年を過ごしたスイスのロシニエールにある「グラン・シャレ」のアトリエも再現されていました。
几帳面なくらいに整理整頓された顔料や絵筆、描きかけの作品、机、壁のすべてが、それ自体、孤高の風格を備えた作品になっていました。
彼が自分を(芸術家よりも)職人だと考えていたことがよく分かります。カオスどころか、整斉とした仕事場であり、工房です。

バルテュス展@京都市美術館 は、2014年9月7日(日)までの展示です。
まだ見られていていない方は、ぜひ足を運んで見てみてください。