小谷野との愛が結婚という形態に落ち着いた時、同じ轍を踏まないように、古い皮を脱ぎ捨てなければという強い意識にかりたてられた。煎じ詰めれば、それは家庭不和から来るトラウマからの脱却であった。
<親が子供にしてやれることで特に大切なのは、子供時代に楽しい思い出をたくさん作ってあげることです>。ターシャ・デューダ画伯の言葉である。この言葉に出会った時、深い共感を覚えると同時に、どうにもならない物悲しさに襲われたものだった。
不仲の両親が営む家庭、それは争いの予感に怯える緊張の館だった。父と母のあり様には、男と女の色香も息づかいもなく、ロボットが餌取りに出かけ、ロボットが食事を作っているようなものだった。母の表情は曇り勝ちで、悲しげだった。感受性の鋭い少女は、母が塞ぎ勝ちな理由のひとつは、女として全く満たされていない事にあると察しをつけていた。性的に不幸な母を気遣い、性の話題を封印し、身も心も開かれないままに、大人への登竜門をくぐった。しかし、その事を受け入れられるのは、恋愛という非日常的な状況の下でのみだった。
結婚というものが、<性>を機軸にした生命の継承を第一義とするものである以上、本来的に結婚にはおよそ不向きな女が自分であった。しかし、小谷野との関係において、結婚以外の選択肢は考えられなかった。不向きだなどと開き直ってはいられなかった。
(小谷野さんは、そのままでいい。彼は、シンプルなまでに男だもの。変えるべきは私だわ。私がまともに女の役割を演じる事しかない。沢山の人を傷付けて、もう失敗は許されない。それに、恐れ多くも、仲人は神様なんだから)。仲人の顔に二度までも泥を塗るわけにはいかなかった。洋服の肩パッドを取り去るように、肩肘を張った生き方に少しずつ柔軟剤を投入して行った。