「現に、ここにいるかもしれませんね」
「そうかもしれない。しかし、哀れだね、まったく。旦那のいない時を見計らって会いに来たとはね。彼は、ウーちゃんに対して、仲間意識を超えた感情を持っていたからね。気づいていたんだろう」
「ええ、まあ。嫌われていないとは思っていましたけど」
「亭主もちだからってあきらめていたわけだよ。それを、小谷野さんが横からさらって行ってしまった。男としての度量の違いを見せ付けられて、自分の軟弱さに相当の深手を負ったはずだよ」
「そんな…」
「彼に仕事を回していたとなると、編集プロダクションでもやっていたのかい。あるいは、今もやっているのかもしれないけど」
「いえ、それはもう昔の話になりました。少しはマシな時期もあったんですが、取引先が軒並み斜陽になってしまって…。それからは露命をつなぐのみ、情けないです、本当に」
「業界の不況のあおりをくったわけだ。<時我に利非ず、スイ行かず>っていう事か…。色々とあったんだろうね、察しがつくよ」
「消しゴムで消してしまいたいような局面が、心の奥の方でくすぶっているんです。博士とも、最後の方は支払いが滞りがちになって、不本意な別れになってしまいました。気にはしつつも、そんないきさつがあったのでここ数年は没交渉でした。その間にこの世から消えてしまったんです」
「それでも、何年かは彼の生活を支えたんじゃないか。どんなに小さな規模でも、雇用を生むというのは立派な社会貢献だよ。ウーちゃん夫婦に生活を預けているっていう事は屈辱的でもあっただろうけど、感謝もしているに違いない。ありがとうね。博士に代わって御礼を言わせてもらうよ」