<甘えればいいんだよ>という、ありふれた言葉が苛烈なまでに心にしみた。
(やっと甘えられるようになったっていう事なのかしら。そうだとしたら、少しは、境涯が上がったのかもしれない)。薄氷を踏むような日々にあっては、甘えも泣き言も許される事ではなかった。今、ようやくにして信頼を寄せる人が大きく翼を広げて、抱きとめてくれようとしているのだった。
「どっぷりと甘えています。こんな老舗旅館で一晩過ごせるなんて贅沢な話です」
「なかなか良い宿だろう」
「ええ、とても…。あのう、実は私、前にここに来た事があるんです。もちろん止まった訳ではなくて、昼間、部屋を借りただけなんですけど」
「ええっ、そうなのかい。そりゃまた、奇遇だねえ」
「はい。<堀川>のパンフレットを見た時は、何て因縁めいているんだろうって心底驚きました」
「子細があったのかい」
「大有りでした。あちらのお義父様に呼びつけられたんです。小谷野さんと二人で」
「生々しいね。しんどい話だ。辛かったかい」
「ええ、それはまあ。でも、その前に奥方の親衛隊に取り囲まれた事があったんです」
「ほう、そっちの方がよっぽど迫力があるね。ビビったかい」
「いえ、結構自分を客観的に見ていた気がします。この女、痴情の落とし前をどうつけるつもりなんだろうなんて小意地悪くなってみたり、近松の心中物語じゃないけど、まるで不義密通の廉で市中引き回しになるお武家の人妻みたいだなんて思ったりもしました」
「随分と冷静だね。それで、その場はどうなったんだい」
「啖呵を切って、二人で帰ってきちゃいました。夫婦の話し合いに自分だけ味方を集めるとはフェアーじゃない。こっちは逃げも隠れもしないから、改めて呼び出してもらいたいって言って。皆、唖然としていましたけど、後日談として、その場に居合わせなかったお義父さんに呼び出されたというわけです」