第8章 香 華
<旅籠 堀川>は、剪定の行き届いた古木に守られるようにして、昔日のままの趣でそこにあった。玄関先の水瓶に咲く睡蓮の花に吸い寄せられるように目が止まり、足を止めた。純白の花弁の中に、若き日の御方様と自分の影を見た。
(睡蓮の花とは、また何て象徴的なんだろう。あの時、御方様が言ってくれたっけ。泥田に咲くのは蓮の花、けもの道にだってきっと花が咲くよって。残念ながら、いまだに鳴かず飛ばずだけど、ここまで死に物狂いで生きてきたから、お疲れ様って労ってくれているのかもしれない)。
ぬかるみを こけつまろびつ 歩む身を
褒めんとぞ咲く 睡蓮清し
素早く手帳に書き留めた。(さあ、いよいよだわ)。深く息を吸い込むと、思い切って玄関の戸を開けた。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。桂木で予約してあると思うんですが、連れの小谷野といいます」
「はい、承っております。桂木様は先にお着きでございます」
「えっ、もう来ているんですか。いやだ、どうしよう。買い物なんかしていなければよかったわ」
「大丈夫ですよ。たった今しがたお着きになったばかりですから」
「そうですか、良かった。それにしても、見事な朝顔ですね。外の睡蓮といい、こちらは相変わらず季節感に溢れていますね」
「ありがとうございます。あのう、お客様は以前にもお越しいただいた事があるんですか」
「ええ、もう二十年以上も前の話です。昔と変わっていないので驚きました。本当に、風情のあるお宿ですね。ホッとします」