「孤独だからって人に声をかけておいて、板ばさみになったからといって放り出そうとする。そんな事だから、オコリンボに付け込まれるんだわ。けもの道に進む前でよかったわ」
「どういう事だ」
何も言わずに財布から一万円札を抜き出し、テーブルの上にたたきつけた。
「ボトルが入っていたし、ツマミはほとんど取っていないから、これで足りるはずです。おつりは、ご立派な女とイヤイヤ付き合っていただいたお礼ですから、どうぞお収めください。さようなら」
捨てゼリフを吐き、店を出て行こうとした。ほとんど同時に、小谷野課長がすごい勢いで立ち上がった。テーブル席の人達が遠慮勝ちにこちらを見ていた。小谷野課長は、素早く前に立ちはだかると、強い力で椅子に座らせた。その目尻に涙が滲んでいるのを見た瞬間、やっと自分を取り戻した。(さっきの私は自分ではない。何かに憑依されていたとしか思えない。そうだわ。これがけもの道の恐ろしさなんだわ)。身体に寒気が走り、生まれて初めて自分を穢れた人間だと感じた。
このまま、どこまで堕ちて行くのか、今までのあらゆる人生経験を駆使してもわかるはずのない魔境に、すでにどっぷりと漬かっている事を、ゾクゾクとした悪寒に耐えながら、骨の隋まで知らされたのだった。
小谷野課長は、水割りを作って一気に飲みほすと、カウンター席の下で私の手を強く握り締めながら言った。
「帰るなんて言っちゃだめだ」
「だって、あんな事を言うから。今なら間に合うから、家庭に戻ってくれればいいと思って、それで…」