下宿の最寄り駅の改札口を降りて、いつものように駐輪場に向かったら私の自転車はなかった。よく考えてみると、自転車は先日の用事で別の駅に止め、そして帰りにまた別の駅を使ったのでまだ最初の駅の駐輪場に置きっぱなしだ。帰ってひと段落したら迎えに行ってやらねばならない。二日分の駐輪料金なので、300円掛かるはずだ。朝取りに行くつもりが、少し寝過ごして余裕がなくなったのだ。夕方にも関わらず、頭上で燦々と照る太陽を睨み、朝の自分を恨めしく思う。
できるだけ日陰を選んで歩いていると、私の横をスーパーに向かう子連れのお母さんや、危なっかしく爆走する小学生たちの自転車が通る。近所の公園が近い印だ。夏休みに入ってから一段と利用者が増えたように思える公園は今日も人でにぎわっている。道路わきに立っている木の下を極力歩くと、気温がほんの少し下がった気がする。きっと今の季節でも、森は涼しく、居心地がいいだろう。鹿やイノシシが少しうらやましくなる季節だ。
子供のはしゃぐ声が聞こえる公園の方へ目を向けると、ちょうど道路わきの古い、汚れた白の掲示板が目の前にあった。貼られたポスターの中には「盆踊り」と書いてあるものもあるが、日程はとうに過ぎている。その陽気なポスターの下には、落ちそうになっている古びたポスターが一枚揺れていた。軽く風が吹いたら飛んで行ってしまいそうなポスターをよく見てみると、犬のイラストの上に「犬の糞は持ち帰りましょう」と書いてある。色が少しくすみ、近いうちに新しくした方がいい感じがする。少し立ち止まり、落ち掛けのポスターを前に貼りなおそうかそのままにしておこうか少し悩んだ。ほんのひと手間だが、「めんどくさい」と決め、ほっておくことにした。ポスターには悪いが、私はそれよりさっさと部屋に帰りたかったのだ。
公園の横を通り過ぎたころには、ちょうど日差しがいい具合に弱くなっていた。さほど熱くなくなったことに安どすると、私の歩みもとたんにのんびりとしたものになる。通り過ぎる家の花壇や、物陰の中でばてる猫を眺めながら歩くと下宿までの道のりもずいぶんと楽しい。溢れるほどの花と、キュウリやトマトなどの野菜の鉢植えが雑多に並ぶ家を右に曲がり、しばらく歩いた。上を見上げると、電線に、ハトが数匹座っていることに気づいた。公園からは少し遠いので、ここら辺でハトを見るのは少し珍しい。一匹が、自分の翼の下をつつくようにかくのを歩きながら眺める。器用な動作に感心していると、足元からグニっと、不穏な感触がして、自分の顔から血の気が引くのを感じた。その感触は、子供のころは頻繁に感じた感触なので嫌でもなにか分かってしてしまう。ハトに向けていた視線を、踏んだまま固まった自分の足元へ向けると、案の定靴の脇から覗くのは茶色い物体。足を持ち上げ、靴の底を見ると、カレー色の新鮮な犬の糞がしっかりと張り付いていた。
途端にさっきまでの楽しい気分は一変し、なんとも言えない悲しさがこみ上げるようだった。車二台が並んで悠々と通れるような広い道で、ほんの数秒足元から目を離したわずかの間に的確に犬の糞を踏んだ。それも、ペットのトイレマナーが比較的守られている日本で、だ。
子供時代に暮らしていたフィリピンの貧しい地域では、道が舗装されていない砂利道で、犬は基本的に放し飼いだったので、石ころに紛れ、犬の糞が落ちていることは珍しくなかった。そのため、私はよく糞を踏んでいた。しかし、少し大きくなったら人は失敗から学び、足元をもっと見るようになるもので、ここ数年はフィリピンでも犬の糞を踏んでいなかったのだ。まさか、日本の綺麗に舗装された道ではこける心配がないからとよそ見をしていた隙に踏むとは誰が思うだろうか?
惨めな気分になりながら道路の脇の空き地の土に靴をこすりつけ、糞をできる限り落とした。ため息を吐き、幸いにも汚れたのが靴の底だけだと自分を励ましながらまた下宿へ、今度は下を確認しながら、向かった。
下宿に帰ったら、真っ先に水道でつまようじ片手に靴の裏を洗った。靴裏の模様に見事に詰まった糞はつまようじで掘り、何も残っていないのを確認すると、玄関で裏向きのまま乾かすように置いた。一息つき、近くの椅子に座ると、はたと思い出すのはさっき通った公園の掲示板。今にも落ちそうな「犬の糞は持ち帰りましょう」と書いてあったポスター。あのポスターを、貼りなおせたにも関わらず、めんどくさがった罰が当たったのだろうか。そう考えると、妙に納得がいく。物事は自分に見事に帰ってくるものだ、と感心する他ない。そして、私が今この悲劇について書いている間にも、思い出したことがある。あの時踏んだ糞は、結局踏まれたまま道路に置きっぱなしだ。フィリピンでは糞を踏んでも、どこもかしこも砂利と土だったのであまり変わりがないが、日本の道路では、あの踏まれて、さらに取れにくくなった糞を、顔をしかめながら始末をする人がいるのだろう。そう思うと、私は自分の始末だけで帰ってくるのではなく、ついでにあの糞を、せめて空き地まで捨てるぐらいの努力をすべきだったのだ。今更気づいた思わぬ失敗に、近いうちに踏む糞の予感を感じるこの頃である。