久しぶりにクマリについてのブログを書く。

最近知り合った人達には知られてないであろうが、僕はクマリデパートに通い始めた頃はよくブログを書いていた。もっともその頃のブログはLINEブログの消滅でもう僕自身すら読むことは出来ない。

なぜブログを書かなくなったのか。僕のブログは「詳細なライブレポ」なんかではなく「溢れ出る感情の吐露」に過ぎない。幸運な事に最近は専らライブ後にそうした「溢れ出る感情」を共有してくれる知り合いが増えた事により、自宅に吐き出せない感情を持ち帰ることが少なくなった。

しかしながら、「大感謝祭」を見終わり、「居ても立っても居られない」感情が久しぶりに芽生えた。


「大感謝祭」と名付けられたそのイベントが発表されたのは、随分前になる。あれは8月だったか9月だったか?6月の羽田だったか?(僕のブログではこうしたあやふやな部分があるのだが、自分の記憶だけを頼りに書く主義なのでスルーしてください)。
その時点では詳しくは伝えられなかったが、「12月27日」になにかあります、との発表だけであった。

やっとイベント名と「全曲ライブ」と発表されたのはもう年末が差し控えた11月下旬の事であった。チケットを取った時は何も気にしていなかったのだが、徐々に日程が近づくにつれ「どうやら3、4時間あるらしい」と聞こえてきた。そして、僕は楽しみよりも「え?そんな長時間耐えらるんだろうか?俺」と懸念が上回ってしまった。

当日は、12時半より事前特典会が行われた。17時から始まるライブだけなら午後半休でも間に合うのだが、年末最後の大イベント、有給を取り、1日クマリデパートを楽しむ事にした。事前特典会からライブまで時間が空くし、何より早い。流石に物好きしかいないだろ、とタカを括っていたのだが、会場であるZEPP DIVER CITYのロビーに着くと、既に長蛇の列。。。慌ててマナちゃん列を探すが、先頭が見えない。なんなら年末最後だし、他メンバーも回すか、くらいの心持ちだったのだが、早速折れてしまった。なんとかマナちゃんを撮り終えて、ゆうなこ列に並ぶ。

「あれ?今日緑じゃなくない?」
黒のクマリパーカーを着ていた僕にゆうなこが言う。
「Tシャツ買ってないの?」
前日に新作Tシャツが発表されたのだが、買ってなかった。
「レス貰えないよ!」
ゆうなこは毎回心を刺してくる…。


さて。事前特典会を終えたのが、13時過ぎ。16時15分の開場までまぁまぁ暇だ。
浜松町のゴールドジムに行くつもりだったのだが、心なしか頭が痛い。
マツモトキヨシで頭痛薬を買い、安静にした。まぁ、ヲタクと話してただけだけど。。。

長い、と思っていたが、意外とすぐ16時になった。気付くと頭痛は消えていた。ありがとう、バファリン!

それなりに落選者が出ていたのであまり公言していなかったが、僕はS席であった。なんとなく最近は落選者が出たイベントはツイートを控えてしまう。縁日、、、うっ、、、。危うく他界しかけたぜ!

場内に入り、下手3列目に座った。横を見るとセンターブロックの知り合いの横が空いていたので場所を移動する。奇しくも七瀬マナ推しが3連番となった。なんとなく安心感がある。もっとも、こういう場合、レスの判別が付かない。親指を下に向けられたら自分だ、とわかるのだが。

場内を見渡すと、新Tシャツを着ている人の多さに驚く。心が動く。
慌てて物販に向かう。
マナちゃんは最後の1枚だった。
買えて良かった。
ゆうなこに感謝。

45分の開場時間はあっという間に過ぎた。

17時になり、場内が暗転し「おいでよクマリデパート」が流れ、メンバーが出てくる。
客席のペンライトが一斉に同じ動きをする。
やはり単独は良い。
フェスでは必然的に、他所のヲタクもいる訳でこうした一体感は、無い。

一曲目は「永遠サマー」からスタートした。TIF以降、夏場に繰り返し披露した事ですっかり定番曲になっていた。あちこちからコールやメンバーの名前を叫ぶ声が聞こえる。僕にとってクマリ現場独特の心地よさの一つは「フロアの同調圧力」が無いところ、である。コロナ禍で大きく曲を増やしたグループ、という事もありバチッと、コールが決まっている曲は少ない。それ故に「あ、こんな所でコールすんの?」というシーンも度々ある。これだけ「良い意味で」統率が無い現場も珍しい。

「古参から代々受け継がれし有り難きコール」

それらが界隈によって守られているグループには、どうしても新規には窮屈に映る
。今の現場は今日いる人間が作っていけば良い。

「渋谷スクランブルLOVE」「夢見た未来のネットワーク」、と「ミニデパ」曲が続く。
CDとは逆の順番なのだが、やたら良い。特に「夢見た未来のネットワーク」は曲自体は悪く無いのだが、トッパーに持ってくるには些か、心もとない。改めてこうして並べられると単純な湧き曲「永遠サマー」、曲が良い「渋谷スクランブルLOVE」、振り付けが楽しい「夢見た」、と意外とミニデパ3曲のバラエティさに気付かされる。

続いて「ヒミツ」「魔法少女Q」と来て「あれ?これもしかしたら?」。
「ぶどう」「夏へのとびら」で確信した。

「これリリース順遡っていってんのか!?」

これ、逆というのがミソで、シングル曲はまだしも、アルバム曲は(少なくとも僕は)意外とわからなくなる。

次は「コスモデパート」曲の番なのだが、アルバムだと最後に6人バージョンの「アンサー!!」「シャダーイクン」が入っているので瞬時にラスト曲がわからない。

「宇宙の果てで恋をした」がはじまった。

武道館で感動的なシーンとなった同曲を見ていると、感謝祭の「宇宙」はステージも照明もシンプルな為、若干、弱い。
その弱さ、とは「ドラマを感じない」所だ。

僕が今まで通ってきたグループには、「ドラマ」が多かった。
「〇〇年の豪雨の中で歌われた〇〇」
「〇〇リリイベで屋外で歌われた〇〇」
そうした楽曲やらメンバーに纏わる「ドラマ」が、これまた

「古参より代々語り継がれしドラマ」

勿論、今までそういうエピソードを僕も享受してきたのでそれはそれで理解はするのだが、最近は正直、胃に重い。

クマリはそういう意味で「ドラマを感じない」。それは僕にとって批判なんかではなく、クマリの愛すべき個性である。ゆえに武道館を引っ張らない「宇宙の果て」の弱さは、寧ろこの3時間半の長丁場の前半としては胃に優しかった。

次の「ケン%」が終わるとMCが入った。
が、しかし、ここまでMCが入らない事に驚いた。「おいクマ」から数えてここまで10曲である。てっきり体力温存のためにMCや休憩が多くなると思っていた、が、ほぼノンストップである。

あっさりとMCが終わると次は「ククククマリデパート」からスタートした。
あぁ、ここでスタートするのはとてつもなく「上手い」。
まるで落語の名人芸を聞いているように構成がスムーズで、無条件にアドレナリンが爆発する。

発表時、賛否が目立った「十字キー」も至る所でコールが聴こえた。嬉しそうに微笑むさおこの笑顔が眩しい。それは1年前の雪辱を果たした勝利の笑みにも思えた。

「ファニチャー」に続き、「トマンナヨ」。「十字キー」同様、当初は苦手派が多数を閉めていた曲であったが、11月の「男子限定ライブ」で突然「湧き曲」に生まれ変わった曲である。この変化は私立恵比寿中学の「でかどんでん」に似ている。「でかどんでん」も当初は否定派が多かったが、今では肯定派が多い。こういう「現場での化学反応による曲の変化」はとても楽しい。そして、その化学反応を逃したくなくて、僕は色んな現場をつまみ食いするよりも、限られたグループを極力、追っていたい派である。

クマリデパートしか!である。

と、ここまで書いてきてこのペースで書いていると、いつまで経っても終わりそうにない。飛ばしたい所ではあるのだが、改めてセトリに「無駄がない」。「全曲ライブ」で「無駄がない」というのも矛盾した話なのだが、「全曲ライブ」だからこそ成立しえない「ドラマ」があるのだ。

「トマンナヨ」に続き「サイエンス」、その後に「なっちゃうよになっちゃうよ」。これまた問題作であり、1月のコスデパリリイベ以来、やってないような。。。が、これまた全曲ライブにぶち込まれる事で、箸休めとして絶妙な味わいを醸し出していた。

続く「キッチン」では一際歓声が大きかったように思う。前半では「夏へのとびら」も凄かった。客席の反応で、みんなの聴きたい曲がわかるのもまた「全曲ライブ」ならでは。続く「あみだ」「豆まき」と問答無用な楽しい曲が続いた。「豆まき」が終わると暗転し、メンバーがステージ袖に戻っていった。

ここで「休憩」と思った人が多かったようで、そこかしこで座席から離れていく人が目に入った。

が、ここはトリッキーで、すぐさま「おいでよコスモデパート」が始まり、先ほど席を立った人達が戻ってきた。武道館前の春ツアーでは毎回「おいコス」始まりだったのだが、如何せん「おいクマ」があるせいで、「武道館」以降では見れなくなってしまった曲。そして、すぐさま「2060年チェリーブロッサムの旅」になった瞬間、大歓声が上がった。

ここまでは、リリース順、CD曲順を巻き戻していたのだが、ここに来てアルバム通りの流れをぶち込んだ。これが順当に「2060年」「おいコス」だったなら、そこまでの興奮は生まれなかったであろう。ここは意外性、と待ってました、感で2023年パート、最高に興奮した瞬間だった。

そして、次にアルバムから漏れていた「今さらだけど、恋しませんか」。ここまでの流れが完璧過ぎたのでポツンと置かれたシングルカップリングで、蛇足になりそうなのだが、曲自体が素晴らしいので全く気にならない。楽しい楽しい楽しい。因みに「今恋」、当初は後半の間奏パートはみんな踊っていたのだが、最近は「クラップー」になってますね。どっちもどっちで楽しい。

で。続いたのが「これから」。なのだが、これも本来なら「今恋」と同様、単純に「アルバムから漏れたカップリング曲」ではあるのだが、この2曲では大きく印象は、異なる。そして「セカデパ」パートに突入し、「せかいの終わりの物語」が流れた瞬間、素晴らし過ぎて、ため息が漏れた。

「これから」「せかいの終わりの物語」。

「大感謝祭」と名付けられたこのイベント。どこまで確信的なのかはわからない。なるほど。それは、ヲタクへの感謝だけだったのか?色々と想いを馳せた。

「コスデパ」から「セカデパ」へのディスクチェンジとしてはこれ以上ない完璧なセトリである。

そして続く「ゴイリョクタラズ」。曲自体は今でも普通にやるが、「セカデパ」パートで披露されると不思議と2021年の気持ちを思い出させた。今ではすっかり忘れてしまったが、2年前はまだまだ加入当初のマナメイには持ちパートが少なかった。どちらかというとバラードが苦手な僕の得意な曲調では無いのだが、あの頃はまだ数少なかったマナちゃんの1番の見せ場だった。夢中になって緑のペンライトを振った。他に好きな曲は山ほどあるのだが、この曲が一番マナちゃんパートが体に染みついている。最後のフワフワみたいなダンス、あそこのマナちゃんはとても神妙な顔付きなのだが、なんとなく今日はにこやかに思えた。

ここから続く「セカデパ」パートはひたすら懐かしい気持ちになり、この2年間の出来事が頭をよぎり、なぜだか無性に「泣けた」。

冒頭で「クマリという存在のドラマ性の不在」と書いたが、いや、実際の所はある。全然ある。それがあまり感じられないのは社長や運営やメンバーやヲタク達があまり過去を引っ張らないからな気もする。

「ちきゅらぶ」を聴きながら、3年前に初めて見たukkaとミシェルとの3マンを思い出した。
「ネコちゃん」を聴きながら、2年前のエクストロメ福島を思い出した。

自分が思っている以上に、この3年間の人生は、クマリと共に歩んできたことを実感した。

「365」が終わり、今度こそ本当の15分の休憩になった。



喫煙所に入ると、ぎゅうぎゅうに詰まった喫煙所の至る所で、ヲタク達が今までの曲やら、これからやるであろう曲について話していた。

ポケットを探すと煙草が切れていた。すると、知らないフウカちゃん推しの人が一本差し出してくれた。遠慮すると、

「困った時はお互い様ですよ」

僕は名前も知らないフウカちゃん推しに感謝しながらタバコに火をつけ、周りが嬉しそうに目を輝かせながらクマリを語る様子を眺めていた。

休憩が終わるとラスト、「ココデパ」パートに移った。確か既に時間は19時半位だったように思う。あれほどまでに「飽きる」と思っていた長尺ライブだったのだが、全く飽きていない。隣のヲタクと「めびうす」と「朝焼けグローリー」はどこに入るんだろうね?と話した。自分でも不思議なくらい、子供のようにワクワクしていた。

再び場内が暗転すると「サマーニッポン夏サマー」が流れた。夏のライブだと、ラストが何回もエンドレスで繰り返されるのだが、流石に今回はCDバージョンだった。続く、ど定番の「シャダーイクン」はやっぱり盛り上がった。「セカデパ」では勝手に思い出に浸っていたが、「ココデパ」パートではまた再び、ひたすら楽しくなった。

「ウダガワ」に続いて「めびうす」が披露された。今日何度目かの「うわー、ここでそれ持ってきたかー!」の驚いた瞬間だった。

12月の色んなイベントでヲタクと会うたびに「めびうす来たら椅子どかしてみんなでサークルやりましょう」と言われていたので、一瞬暴動が起きるんじゃないか、とヒヤッとしたが、流石にそんなことは無かったが、最前のヲタク達だけ、数人の小さなサークルを作って回っていたのを目の端に入ってきた、笑ってしまった。

ラストの肩組みでは誰が始めたのか分からないが、横から手が伸びてきて、全員で肩を組んだ。こんな自然発生的に肩を組んだのなんていつ以来だろう?10年前のエビ中では「永遠に中学生」が来ると肩を組むのが常識であった。エビ中初のSSAのラストはそれはそれは、感動的な光景だった。しかし、エビ中に女性ヲタクが増え、またエビ中自体も「永遠に中学生」をやらなくなった事で、いつしかその文化が失われてしまった。そして、2023年に再び、そんなやさしい後継を目の当たりにして、じんとしてしまった。本日何度目かの「クマリ推してきて良かった」瞬間だった。

「めびうす」「あいろにー」に続いて、「朝焼けグローリー」。初めて見たの福島だったっけ?「めびうす」も「朝焼け」もサブスクには入っておらず、僕が推し始めた3年前の時点でも「レア曲」だった為、最初の頃は披露されてもぼんやりと眺めていた。今でもレア曲に変わりないのでやっぱりあんまり振りコピは出来ないけれど、3年前よりはちょっとだけ覚えた。

「朝焼け」が終わると「ピアノ」。初めて行ったクマリの6thワンマン。僕が人生で初めて書いたブログはこの時のものだ。その時期、まだクマリの曲を殆ど知らなかったが3曲目か4曲目で披露された「ピアノ」でクマリに恋に落ちた事はいまだに忘れない。曲名すらも分からなかったが、6人が横一列に並んだ瞬間、「あ、このグループ好きだ」と思った。一番好きな曲はコロコロ変わるからわからないが、好きになったきっかけの曲と聞かれたら間違いなく「ピアノ」になる。

「いくじなし」「二四時間」と続き、ラストは「愛phone」だった。とてつもない興奮と熱気が場内に渦巻いた。

終演後は再び特典会だった。

特典会が終わり、ZEPPを出るともう時計は22時をさしていた。語りたい事が山ほどある。ここまでヲタクと呑みたい日は、そうは無いのだが、なにぶん、遅い。。。
この日のただ唯一の不満は「呑めない」、それだけだった。あわてて台場駅前のローソンに行き、缶ビールを2本買った。

特典会が終わって出てきた友達に一本を渡し、ささやかな乾杯をした。

道すがら、顔見知りのヲタク達に挨拶をする。

「良いお年を」

2023年も、もう終わる。

去年の今頃は、何ミリか、「もしかしたらクマリは武道館で終わってしまうじゃないか?」と覚悟していた。しかし、まだまだクマリは続いている。

帰りの電車で窓の外の年末を感じさせるライトアップされた風景をぼんやり眺めながら幸せな気持ちになった。

1/3のチケットも買わなくちゃな

おしまい
 

 

















「ゴジラ-1.0」が大ヒットしている。


元々ゴジラシリーズというのは何度かの低迷、終了、をしている。

1954年の初代から約20年間続いた昭和ゴジラは1975年の「メカゴジラの逆襲」で一度終わっている。1984年に一度復活するものの、特にシリーズ化はなし。


再び平成になり平成ゴジラシリーズがスタートしたものの、やがて終了。再度ミレニアムシリーズをスタートするがそれも終了。

流石にミレニアムシリーズが完結した時は「もうゴジラはやらないんだろうな」と個人的に思った。


そしてミレニアムシリーズ完結から16年後、再び復活した「シン・ゴジラ」が特大ヒット。これに味を占めたのかわからないが、東宝は再び新作「ゴジラ-1.0」を製作した。


個人的な「ゴジラ-1.0」の評価は差し控えるが、劇場で何より圧倒されたのはゴジラが日本に上陸した時に伊福部昭の曲が流れた瞬間だった。何度聴いたかわからない伊福部昭の旋律は、もはや怪獣映画で育った世代にとっては「好き」とかそういうものではなく、完璧にDNAに刷り込まれたもはや「鼓動」である。伊福部昭の曲が流れた瞬間、ゴジラに対する畏怖が奮い立つ。


「やっぱりゴジラは日本じゃないと無理だ」


ここでハリウッド版ゴジラについて纏めたい。

「ゴジラ」は正真正銘日本産「怪獣」である。一応、「ゴジラ」の元ネタとして幾つかのハリウッド映画がある。「キングコング」(1933・米)、「原子怪獣現る」(1953・米)などがそれにあたる。しかし、それらは「恐竜」「モンスター」映画である。あくまでも「怪獣映画」というジャンルは日本で独自発展したものだ。


1954年の「ゴジラ」は当時日本で大ヒットしている。貨幣価値、入場料が異なるので単純な比較は出来ないが、動員数で見ると「シン・ゴジラ」の569万人に対し、初代は961万人。1.6倍。雑に今の興収に直すと「シン・ゴジラ」の82.5億に対し、140億位になる(興行形態が今と異なるのであくまでも単純比較である)。


1950年代は終戦から復興し始めて、徐々に邦画が質、量ともに復活していった時代である。今の日本人には信じられないかもしれないが、黒澤明が「羅生門」でヴェネツィア映画祭を受賞してからは毎年のように日本映画が海外の映画祭に出品され、また海外で公開され始めた時代である。中でも黒澤明は「羅生門」以降、「七人の侍」をはじめとする数々の名作で当時から海外での評価は高かった。丁度そんな邦画が世界的に注目されている時代に日本で大ヒットした「ゴジラ」は世界進出を果たす。


「ゴジラ」は世界中でヒットし、その後のシリーズも海外で公開された。


そして、そんな日本が産んだ「ゴジラ」をハリウッドがほっておく訳も無く、1998年に初のハリウッド製作による「GODZILLA」(1997・米)が誕生する。監督は1996年に「インディペンデンスデイ」を大ヒットさせたローランド・エメリッヒ。当時の日本のゴジラ、といえば平成シリーズで、すっかり子供向け路線になっていた。そんな時期故、期待値は高かったのだが、そこで描かれた「ゴジラ」は単なる巨大な「イグアナ」に過ぎなかった。なによりもそれまで日本の「ゴジラ」で人間の手には終えない存在だった「ゴジラ」があっけなくアメリカ軍に倒されるのを目の当たりにして「コレジャナイ感」が半端なかった。


そして再びハリウッドは16年後に今度はギャレス・エドワード監督により「GODZILLA」(2014年・米)が製作される。1990年代まではハリウッド製作の漫画、アメコミ、ゲーム物の映画は原作にリスペクトの無い作品が溢れていたが、マーベル映画誕生以降、幼少時代にそれ等で育った監督や製作者たちによる原作リスペクト精神溢れる作品が増えた。ギャレス版「GODZILLA」もエメリッヒ版とは異なり、丁寧に和製ゴジラを損なわないよう練られていた良作であった。


が、しかし、どれだけギャレス版「GODZILLA」が力作であろうと、観終わると「なんか違う」というモヤモヤが拭えなかった。例え、「伊福部昭」の音楽が使われようが、そこにいる「ゴジラ」は「GODZILLA」であり「ゴジラ」ではない。あくまでもハリウッド版「GODZILLA」はモンスターであり怪獣では無いのだ。


そもそも「怪獣」ってなんだ?


それでは「ゴジラ」という映画はどのような経緯で産まれた作品なのだろうか?


1945年8月15日。日本は終戦を迎える。

東京大空襲、広島・長崎への二度の原爆投下。

日本がアメリカに売った喧嘩は想像以上の大打撃を日本に与えた。

「ゴジラ-1.0」の冒頭に出てくる、廃墟と化した東京。あれは誇張なんかではなく、実際の1945年の東京のリアルな映像だ。


商魂たくましい映画人は敗戦直後の東京を舞台にした「東京五人男」という映画を撮っている。1945年12月公開なので敗戦からたった4ヶ月。随分昔に観たのでハッキリと言明出来ないのだが「ゴジラ-1.0」の廃墟と化した東京を観て「あ、東京五人男」と筆者は感じた(因みに本作の特撮で円谷英二が参加している)。


そんな中で日本は徐々に復興し、1950年からの朝鮮特需により一気に景気を取り戻していく。敗戦により日本はアメリカの特殊機関、GHQが支配した。GHQは日本人の「戦意の復活」に恐れた為、GHQ支配下では製作される映画には全てGHQの検閲が入った。対決シーンがある時代劇は制作許可が降りないばかりか、戦前に作られた時代劇すらもGHQにより編集され公開された為、戦前の名作といわれる時代劇の多くが、今現存するのはGHQ編集後のカット版、が大半である。


そして敗戦から7年後の1952年、GHQから解放されると検閲は無くなり、戦中の軍部による検閲、戦後のGHQによる検閲、長い検閲から解放された映画人たちは一気にそれまで表現出来なかった自由な表現を花開かせる。


未だに世界の映画史ランキングで上位にのぼる作品の大半がこの時代に生まれた邦画である。小津安二郎「東京物語」、黒澤明「七人の侍」「羅生門」、溝口健二「雨月物語」。1952年からの数年間こそが、日本映画史がもっとも名作を作り出した時代である。


戦時中の検閲で大半の映画人が表現に苦しむ中、唯一才能を開花させた天才がいた。

それが「ゴジラ」の特撮監督を担当する事になる円谷英二であった。若い人の為に補足しておくと「ウルトラマン」シリーズを作り出したのも円谷英二である。


元々円谷英二はカメラマンであった。1933年に公開され日本でも大ヒットした「キングコング」に感銘を受け特撮を研究し、設立されて間もない映画会社「東宝」の特殊撮影課に迎えられが、当時の邦画に特撮の出る幕は無く、殆ど仕事は無かった。当時の円谷は殆ど窓際族のような存在だったらしい。


第二次世界大戦中、ドイツ、アメリカを始めとした参戦国はこぞって自国民の為に「戦意高揚映画」を作る。日本も幾つもの「戦意高揚映画」を作っているのだが、当然の事ながら戦争中の為、戦争シーンを現実に撮影は出来ない。そこで任命されたのが、円谷英二であった。円谷は数々の「戦意高揚映画」の特撮シーンでどんどん才能を開花させていった。どの位当時の円谷英二の特撮が見事だったかは、戦後円谷が手がけたフィルムを観たGHQが実写と間違った位である。


戦後暫くして、円谷は東宝に、ある一本の作品の企画を提出する。

その「クジラが東京を襲う」企画は採用される事は無かった。

円谷の企画の着想の原点は「東京大空襲の恐怖」であった。


そんな時に大事件が起こる。

1954年3月。アメリカによるビキニ環礁での核実験により、日本人の乗る漁船、第五福竜丸が被曝する。戦後復興し始めた日本ではあったが、世界唯一の被爆国による、あらたな原爆被害により日本中を脅かす大事件となる。


そうした原爆の恐怖に再び苛まれた日本に、円谷英二の企画は形を変えて再浮上する。

「水爆実験により目を覚ました恐竜が東京を襲う」。

こうして世界初の「怪獣」映画は誕生した。


「ゴジラ」が生まれた背景にあるのは「戦争の恐怖」「原爆の恐怖」である。


実際初代「ゴジラ」にはそこかしこから戦争で疲弊した日本人の生々しい思い出が姿が描かれている。


中でも印象的なのはゴジラが銀座に向かってくるシーン。殆どが避難したであろう銀座に、母親が抱きかかえた子供に必死に「もうすぐお父ちゃんの所にいけるからね」と言うシーン。終戦9年目だからこそ描けた残酷なシーンだ。


負傷した民間人でぎゅうぎゅう詰めの病院。母親が亡くなったであろう幼女が「おかあちゃん」と泣く。当時の日本人はどれだけこんな様子を見てきたのであろうか。大半はエキストラであろうが、その疲れた表情が生々しい。


初代「ゴジラ」は「敗戦国」「被爆国」だから作れた映画であり、世界中のただ「怖いだけ」のモンスター映画が逆立ちしても不可能な稀有な映画になったのである。1954年、全員が「戦争体験者」だった日本の映画館で「ゴジラから逃げ惑う人々」の姿を観ながら、人々は「空襲」や「原爆」を再び思い出しながら観ていたであろう。それは現代の我々には理解出来ない映画体験である。


「シン・ゴジラ」が誕生するまで、人の手でゴジラを退治出来たのは1作目だけである。

そしてそこに描かれるゴジラの最後は決してハッピーエンドではなく、「人間による原子爆弾によって生み出された怪獣」への悲しみで終わっていく。実際、観客からはゴジラへの同情が多かったとも言われている。


ゴジラシリーズは当初からシリーズだった訳では無い。1作目の大ヒットで翌年の1955年に続編「ゴジラの逆襲」が作られたものの、ここでゴジラは一旦終わる。続編には1作目のような「戦争」の匂いは少ない。ゴジラシリーズが正式にシリーズしていくのは、そこから更に7年後1962年の第3作目「キングコング対ゴジラ」からである。


もはや1962年は高度成長期真っただ中である。この時期に作られた他の映画を観ても既に「壊滅した東京」の姿は微塵もない。「キングコング対ゴジラ」は当時としては娯楽大作として作られた。「怪獣対怪獣」というフォーマットは「キングコング対ゴジラ」で完成したと言える。更にシリーズを重ねるごとにどんどんゴジラは「子供向け」映画になっていく。もっとも親しまれたゴジラはこの辺りの「子供向けの怪獣対怪獣」のゴジラであろう。


但し同時にゴジラは存在意義を無くしていく。昭和後期になってくると予算縮小も重なり、もはや怪獣が来ても誰も逃げもすらしない。初代で描かれた「未知への恐怖」はすっかり無くなっていた。昭和シリーズ後期唯一輝きを取り戻したのは第11作の「ゴジラ対ヘドラ」(1971)である。

高度成長期は日本経済を押し上げるとともに副次的に様々な問題を引き起こした。1970年代前後に社会問題となったのが、公害である。そうした時代を背景にした「ヘドラ」は久しぶりに社会派と呼ぶべきメッセージ性が込められて作られたのだ。


ゴジラは一度昭和シリーズで終わった事は冒頭で述べた。そして平成シリーズで復活するものの、平成シリーズは昭和シリーズの「対怪獣」路線であり、昭和後期よりマシではあるのだが社会的アイデンティティは弱い。


日本はゴジラシリーズ以降数々の亜流怪獣映画を産んだ。日活「大巨獣ガッパ」(1967)、松竹「宇宙大怪獣ギララ」(1967)、その中でも最も有名かつ成功したのは大映のガメラシリーズであろう。但しこれらが参考にした怪獣映画は初代ゴジラ、では無く所謂「怪獣プロレス」と化したゴジラシリーズである。その為怪獣達には産まれた悲しみは無い。


平成ゴジラシリーズが再び子供向け映画として作られる中、突如として金子修介監督により「大怪獣ガメラ」、所謂「平成ガメラ」が登場する。


初代ゴジラの背景には戦争の恐怖があった。もっともじゃあ初代ゴジラは反戦映画なのか?それは違うと思う。その時点で多くの日本人のトラウマだっただけであり、敗戦による無力感、厭世観が濃厚に影を落としただけどと思う。だからこそ、以降のゴジラシリーズにはそんなトラウマは無いのである。いや、戦争とひとくちに言うのも間違っている。ゴジラは島国日本人が戦争や災害、逃げる事も出来ず、抗うことも出来ず、ただ恐れおののく恐怖心へのメタファーなのである。


ゴジラが失った「日本人の恐怖心」を再び蘇られた存在、それが平成ガメラである。


平成ガメラが公開されたのは1995年3月。


阪神・淡路大震災1995年1月17日。

平成ガメラ公開 1995年3月11日。

地下鉄サリン事件 1995年3月20日。


制作時には想定されてなかったであろうが、丁度平成ガメラの幕開けは日本が未曽有の震災・テロ事件に挟まれた時期であった。翌年1996年公開の「レギオン襲来」を劇場で観た筆者はレギオン地下鉄襲撃シーンで、無意識に地下鉄サリン事件を重ね合わせた。


日本が不安定になると、秀逸な怪獣映画が誕生するのは何とも皮肉な事である。


そしてそんな「平成ガメラシリーズ」で一躍有名になったのは、特撮監督を務めた「樋口真嗣」である。はっきり書いてしまうと平成ゴジラシリーズのよく言えば「円谷英二」の遺伝子を受け継ぐ、悪く言えば昭和からの古臭い特撮、に安心感と物足りなさを感じていた僕は「平成ガメラ」での「人の目から見た怪獣」視点にたまらなく興奮をした。最近4K版で観直しても改めて「平成ガメラ」の特撮は素晴らしい。円谷英二によってはじまった日本特有の「着ぐるみ」「ミニチュア」特撮は、樋口真嗣の登場でほぼ完結してしまったと言って良いだろう。


そして平成ガメラ公開から7ヶ月後の1995年10月に一本のアニメの放送が開始される。樋口真嗣も関わっていたそのアニメこそ「新世紀エヴァンゲリオン」である。


「ゴジラ」の二番煎じとして誕生した「ガメラ」がやがて「シン・ゴジラ」でゴジラが復活する土壌を作ったのだ。


こうした「平成ガメラ」「新世紀エヴァンゲリオン」を経て庵野秀明総監督、樋口真嗣監督で復活した「シン・ゴジラ」がどうしてあそこまでヒットしたのか?


因みに「シン・ゴジラ」の前作に当たる「ゴジラ FINAL WARS」の興行収入は動員104万、興行収入12.5億。一方「シン・ゴジラ」は動員569万、興行収入82.5億。どれだけ「シン・ゴジラ」が大ヒットしたかがわかるかと思う。


因みにミレニアムゴジラシリーズで最も興行が良かったのは第25作の「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃」の27.1億だから、因みに本作の監督は「平成ガメラ」の金子修介監督である。


勿論、「シン・ゴジラ」を初めに観に行った客層は往年のゴジラファン、そしてエヴァンゲリオンからの庵野ブランド支持者だったろう。樋口真嗣の特撮は素晴らしいし、一癖も二癖もある配役の妙、思わず口に出したくなる名台詞の数々。単純に出来が良い。

が、しかし、何よりも2016年の日本人に共感されたのは閣僚が一気に殺される展開ではなかったろうか?


そこには今現在の日本が抱えるどん詰まりの状況への共感が多分にあったと思う。

そして阪神大震災、東北大震災以降、災害の恐怖をリアルタイムで知る事で、より一層強まった災害への恐怖がよりリアリティを持ったのではないだろうか?

「シン・ゴジラ」は初代ゴジラの頃の日本人が持っていた「戦争体験」による恐怖、を現代的な日本の抱える恐怖にアップデートした事が成功の1番の鍵だったと思う。


そうなってくるとなぜ「ゴジラ-1.0」は初代の1954年よりも遡る、1947年に設定したのであろうか?


「ゴジラ-1.0」は敗戦で疲弊しきった日本を舞台にしている。

それだけだと初代「ゴジラ」と変わらないのだが、未だ戦争の暗い影を落とさざるを得なかった初代と比べ、全体的なトーンはポジティブである。

これは、令和の現在の日本が舞台では中々に導きづらいテンションだったように思う。

世の中的な論調だと「朝ドラぽい」「プロジェクトXぽい」と言われているようだ。確かにそう思う。


ある意味これは山崎貴監督なりの「日本頑張れ」というメッセージだったんじゃないだろうか?


「ゴジラ-1.0」を観ていない方の為に詳細は書くのははばかれるが、ひとつだけ。

映画前半ではぱっとしない中年だった吉岡秀隆の後半の「覚醒」。

それまで無名の東宝スタッフに過ぎなかった円谷英二が「ゴジラ」で「覚醒」し、一躍有名になったのは「54歳」の時である。

吉岡秀隆の姿はまるで在りし日の「円谷英二」に思えた。


初代「ゴジラ」のラストは人類がゴジラを倒し、こんなセリフで幕を閉じる。


「あのゴジラが最後の一匹とは思えない。もし水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類がまた世界のどこかへ現れてくるかもしれない」





先日、とあるグループのメンバーが自信のSNS発信の必要性に悩んでいるブログを読んだ。まぁ、これを読んでいる知り合いは「ああ、その件ね」と思うだろうがあくまでもそれはきっかけに過ぎずそのメンバーについての話ではない。

浅はかにそのメンバーの心境を読み取ると「オタクの反応薄いな、おい」という事だろう。
それは分かる。俺だって、渾身のツイートをあげても100インプレッションだったりすると「あ、みんな俺には興味ないのね。俺なんて生まれてこなければ良かったんだ」とちょっとだけ太宰治みたいな気持ちになる。
世間の端っこで泥水をすすりながら生きてきたおっさんですら反応が少なければ気にする訳で、若いアイドルが気にしない訳はないであろう。

なにもこれはそのメンバーに限った事ではなく、多分SNSを苦手と思うアイドルは多いと思われる。俺自身が見ていてそう思うメンバーもいるし、実際本人から聞くこともあったりする。

アイドルの情報発信でオタクは増えるのか?

結論から言ってしまうと「増えない」と思う。勿論、ツイートが面白いから特典会行ってみた、インスタで気になったからライブを見てみた、ひとつのきっかけになる事はあるだろう。但し、あくまでもそれはきっかけに過ぎず、圧倒的多数は「曲」であり「ライブ」からファンになる人が大多数であり、言うならばアイドルのSNSの情報発信は「電子版フライヤー配り」に過ぎないだろう。

では不要なのであろうか?

いや、めちゃめちゃ大事だと思います。

先ほどファンになる要素として「曲」と「ライブ」をあげた。言うならばこれらはファンづくりにおける「種」である。種だけでは花は咲かない。SNSの情報発信は花を生かし、成長させる為の「水」であり「光」であろう。

つまり、「水」や「光」だけでは花は咲かないけれども、同時に「種」だけでは成長しない。もし仮にライブと音源だけでSNSの情報発信を一切やらないアイドルがいたとしたらオタクは速攻枯れてしまうだろう。ライブに行く頻度はそれぞれ異なるが、そのライブに行かない日常での隙間の「光合成」、それが「アイドルからの情報発信」なんじゃないだろうか。

じゃあ、その頻度はどの位が良いのだろうか?
草花でも手入れが異なるように、そのメンバーのファン層がどのような種類か、にもよると思う。結論「花が腐らない程度に与えてあげましょう」という事になる。

次にどのような肥料を与えれば良いのか?
正直これもファンによる、となってしまう。内面を深堀りしたいファン層が多いメンバーの場合、喜ばれるのは日々の気付きや出来事の丹念な報告であろう。
ビジュアルが好かれているメンバーならば画像だろう。

finger runsというグループの「兎月こむぎ」というメンバーがいる。
この子のツイートは毎朝一枚の画像と「おはようして~」の一言のみ、である。
が、やたら気をひかせる。
この子の面白いのは稀に「おやすみして~」や「えらいえらいして~」等変化球を投げつけてくる所である。男でも女でもどこかしら気まぐれな異性に振り回されたい願望があると思うのだが、この子はそういうファン心を上手くくすぐっている。

もっとも、兎月こむぎの方法論は一例に過ぎない。

結局の所、そのメンバーの魅力がファンに伝わっていればそれで良い、という事になる。それはぎこちない言葉でも、すっぴん画像でも良いし、食事の画像だって良い。とりとめのない結論だけれども、「あぁ、なにか愛しの推しが表現したがってるな」と思えばそれだけで良いんじゃなかろうか。

アイドルからの「光」があれば勝手に「光合成」を始める。オタクなんてそんなもんだから。