佐倉観光ひとり「海隣寺」「甚大寺」 | はろはろはうすの<何を食べようか>

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夕べ何を食べたかも忘れてしまうオッサンの、気が向いたらの日記です。

9月10日

今日は千葉県佐倉をひとり旅。

甚大寺でスマホのバッテリーが
切れてしまったので、
一旦クルマを停めている
国立歴史民俗博物館の駐車場まで
歩いて戻ることとする。

スマホを手に入れてからというもの
私としたことが、
すっかりスマホ無しでは
暮らせない人間になってしまった。

ここからはクルマでスマホを
充電しながらの移動である。

「海隣寺」へ。



源頼朝の挙兵に参戦し
鎌倉幕府の御家人となった
千葉常胤(つねたね)が、
海辺で月を見ていると
海の上に光り輝くものがあった。

そこで網を打つと、
金色に輝く阿弥陀如来像が
引き上げられた。

常胤はこの仏像を「海上月越如来」と
名付けて馬加(現在の幕張)に
海隣寺を建立し、
本尊として安置したと伝わる。



後の戦国時代になって、
千葉親胤が現在の場所に移築。

この千葉親胤は後北条氏の
侵攻に敗れて幽閉され、
17歳で暗殺されている。



山号は「千葉山」



山門には千葉氏の家紋である
「月星紋」がある。



これは弘法大師か。

海隣寺は時宗の寺だが、
その前は真言宗だったそうなので
その名残か。



お寺の境内を裏へ抜けると
そこは市役所の駐車場。



ここから縄文時代から

奈良・平安時代にかけての
住居跡が見つかっている。

 



「海隣寺於茶屋遺跡」という。



しかし遺跡らしきものは、

この案内板以外には何もない。








駐車場に隣接して墓地がある。



その奥に沢山の石塔が並ぶ。



「海隣寺千葉家供養塔」





刻まれた銘文から本佐倉城の
城主であった千葉昌胤や、
利胤・親胤・胤富・邦胤・重胤の他、
海隣寺住持などの菩提を
弔ったものであると伝えられている。

 

 

 

 


東日本大震災で倒壊してしまい、
修復はされたものの
まだその傷跡は残っている様だ。





再び「甚大寺」へ。

やっぱりクルマの移動は
早いし楽ちん!



佐倉藩主・堀田家の
菩提寺である。



山形藩主だった堀田正亮が
佐倉へ移封するにともない、
山形からこの地に移された寺だとか。





こちらが5代藩主
堀田正睦の墓。

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幕末の日米修好通商条約において、
老中首座として米国と幕府と朝廷の
調整に当たったことで知られる。

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堀田正俊の墓。

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江戸城内での刃傷沙汰は
7件あったという。

その中でも大老の堀田正俊が
若年寄の稲葉正休に
切り殺された事件は謎が多い。

堀田正俊は稲葉正休に
御用部屋の入口へ呼び出され、
そこで脇の下から左の肩先まで
刀で一突きにされたという。

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そこに駆け付けた老中3名
大久保忠朝・戸田忠昌・阿部正武が、
その場で正休をメッタ斬りにして
殺してしまった。

そのため稲葉正休が
堀田正俊を殺した動機が判らず、
事件の真相は闇に葬られてしまった。

実は将軍・綱吉が堀田正俊殺害の
黒幕だったという説もある。

有名な浅野内匠頭が吉良上野介を
松の廊下で切りつけた忠臣蔵事件は、
その17年後のことである。

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松平不眛の娘・幾千姫の墓。

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16歳で佐倉藩9代堀田正愛に
嫁ぐも4年で死別。

その後は謙映院を名乗る。

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こちらが佐倉藩最後の藩主
堀田正倫の墓。

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他にも立派な墓が並ぶ。

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その中で気になるのが、
ひっそりと目立たぬようにある
このふたつの墓である。

手前が堀田正睦の生母の墓。
奥が堀田正倫の生母の墓。

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堀田正睦の生母は
藩士・源田右内光寿の娘。

正睦の側室が平田氏の娘・伊久で
堀田正倫の生母である。

共に側室であるが、
特に堀田正倫の生母の墓は

「堀田伯爵生母平田氏墓」

のみであり戒名もない。

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これは妻となり母となっても
そして亡くなってからでさえも、
性別に加えて身分にもよって
女性が差別され抑圧され続けてきた
長い歴史の証である。

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