まだまだ佐倉観光ひとり気のまま | はろはろはうすの<何を食べようか>

はろはろはうすの<何を食べようか>

夕べ何を食べたかも忘れてしまうオッサンの、気が向いたらの日記です。

9月10日

千葉県佐倉市。

今日は蘭学の街
「佐倉」をひとり旅。

長い坂道「蘭学通り」を歩く。

「佐倉順天堂記念館」



長崎で蘭医学を修めて
江戸で開業していた
蘭医の佐藤泰然が、
藩主の堀田正睦の招きによって
天保14年(1843年)に開いた
蘭医学塾・診療所である。





慶応元年の記録によれば
塾生は全国から100名に及び、
泰然の弟子は数百名、
孫弟子まで含めると
3千名を超えるという。





泰然は藩医に召し抱えられ、
藩内の牛痘の普及にも
尽力したそうな。





その隣には「佐倉順天堂医院」



今も現役の病院である。

 


坂道を戻って裁判所前へ。



「松林寺」



初代佐倉藩主だった土井利勝が、
慶長15年(1610年)に
菩提寺として建立した寺。

当時の観音堂が、
現在は本堂として残る。



土井利勝の養父母と
正室の墓(供養塔)がある。



右が正室(松平近清の娘)。
左は養父の土井利昌。
中央は養母の土井利昌夫人。



2011年の東日本大震災で
倒壊してしまい、
復旧工事の際に教育委員会が
発掘調査をしたところ、
利勝夫人の石塔の下から
火葬した骨を埋納した
備前焼の甕が出てきたとのこと。

中には小柄で華奢な
若い女性の骨が
納められていたとのことである。



ひっそりとしている。





「延覺寺」





明治の巡査・鈴木清助の
顕彰碑がある。



鈴木巡査は明治23年に
川崎銀行佐倉支店から
運ばれた国庫金の護送の際に、
千葉市の夫婦坂にて強奪犯に襲われ
拳銃で撃たれ重傷を負いながらも、
応戦し犯人を捕まえた後、
収容された病院で亡くなった。

この事件は大きな反響を呼び
「夫婦坂事件」という芝居まで
上演された程だったという。



もう少し通りをブラブラ。





「宗圓寺」へ。





境内には

「佐藤尚中招魂の碑」



尚中は先程訪ねた
佐倉順天堂の第二代堂主。

佐倉藩の藩医となり
佐倉養生所を開設。

維新後は明治政府の要請により
大学東校(現・東京大学医学部)の
初代校長に就任。

後に順天堂病院を開いて初代院長となり、
それが現在の順天堂大学となる。



その佐藤尚中の墓と、
佐倉順天堂を開設した
佐藤泰然の墓が本堂の裏にある。









本堂の横には

「盡道之碑」(じんどうのひ)



明治25年に佐倉で
天然痘が流行し、
「病勢激烈」な中で
検疫・消毒等の処置にあたり、
自らも天然痘に罹患して
42歳で亡くなった警察官

戸村芳蔵の碑である。



こちらは「嶺南寺」



寛永19年(1642年)に
信濃松本藩主だった堀田正盛が
佐倉に移封された際に、
松本から移された寺だとか。



ここからすぐ近くに
甚大寺の「堀田家墓所」がある。



堀田正俊・正睦・正倫の墓。









こちらが佐倉藩最後の藩主
堀田正倫の墓。





こちらが5代藩主
堀田正睦の墓。

幕末の日米修好通商条約において、
老中首座として米国と幕府と朝廷の
調整に当たったことで知られる。


というところで、
スマホのバッテリーが
空になってしまった。

あせる!


さあ、どうするどうする?

 

帰るか、進むか、
どしたらよかんべ?