新田荘を巡る:長楽寺散策 | はろはろはうすの<何を食べようか>

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夕べ何を食べたかも忘れてしまうオッサンの、気が向いたらの日記です。

8月9日

群馬県太田市。

「岩崎屋」で焼きそば食べて、
それから駆け足で観光。

太田市歴史公園を歩く。

ここは東照宮を始めとして
見どころが多い。

「太鼓門」

江戸時代初期のもの。




 

どことなくユーモラスで、

そして美しいですね。



「徳川義季公累代墓」

 

 

徳川家康に先祖とされてしまった
世良田義季の墓所である。




義季は新田義重の四男で、
父義重から世良田郷を譲られたことから
世良田姓を名乗る。



家康は自身をその世良田義季の子孫と自称し
源氏の家系であることの根拠としたが、
実際には関係ないことは現在の定説である。

 

義季は世良田郷と共に得川郷の
領主でもあったことから、
得川四郎とも名乗っていたという。

その得川から家康は姓を徳川とし、
源氏を名乗ることで
征夷大将軍になることができた。

世良田を名乗らなかったのは、
家康が三河守になろうとした時に
「世良田源氏の三河守任官は前例が無い」
という理由で朝廷から拒否されたことが
あったからである。



義季は鎌倉時代に亡くなっている。

後になって他人の家康から
まさかこういう政治利用をされるとは
夢にも思わなかっただろう。

 

義季の魂はここにあるのか。

 




「開山堂」

長楽寺の開山・栄朝禅師を祀る
お堂である。





木蔭が涼しい。




その奥には

「新田家累代の墓」



開山堂の裏の墓所は
卵塔があるので歴代住職の墓か。

木の祠のところが栄朝禅師の墓。



すると新田家累代の墓は
さらに奥にあるこちらですかね。

新田岩松氏の墓所だという。


岩松氏のことを語りだすと

また長くなるので先を急ぐ。




開山堂の正面に戻る。
こちらの石塔はまだ新しい感じ。


 

「牛石」

世良田義季公の招きで
上野国に来られた栄朝禅師の荷物を担ぎ
一緒に旅をしていた牛が、
世良田に付くと現長楽寺開山堂前に座り込み
動かなくなった。

そして横たわった牛が石に変わった事から
牛石と言われる様になったという。


 

以下は長楽寺のHPより抜粋
http://serada-chourakuji.jp/keidai.html

 この牛石に座りお願い事とすると
 牛が願い事を仏界に
 届けて下さると言われております。

 尚近年は此処で子授かりのお願いをされた方で
 子供を授かったという方が沢山おられ、
 子授かりの牛石とも言われております。

そういう御利益があるのか。

誰が考えたんだろう。


 

向こうには「太鼓門」


 

そして長楽寺「本堂」へ。



賽銭箱には新田のひとつ引両紋と
徳川の葵の紋が並ぶ。



「総門」を出て



「三仏堂」へ。




新田荘にこれだけの文化財が
現在も残っている理由を考える。

江戸時代までは徳川を新田の末裔としたことから、
徳川という壮大な権力の加護があったこと。

明治以降から第2次大戦までは

政治的な歴史観としての南北朝の南朝びいき、
ということが大きかったのかもしれない。

※新田義貞は南朝側で足利尊氏は北朝側。
 そのため明治以降の尊氏は朝敵扱いされていた。
 因みに現在の皇室は北朝の流れを汲む。

 

やはり新田荘の歴史をここまで繋ぎ止めていたのは

新田義貞なのだ。


鎌倉幕府を倒したものの武士の棟梁になれず、
最後は福井で流れ矢に当たり戦死。


それでも新田義貞という武将は

現在もなお新田荘を守っているのだと思う。

 

そういう意味でも、

義貞はとても運の良い武将だったと

言って良いのではないだろうか。