岩槻:龍門寺・佐枝氏館跡 | はろはろはうすの<何を食べようか>

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夕べ何を食べたかも忘れてしまうオッサンの、気が向いたらの日記です。

2月15日

埼玉県さいたま市岩槻区。

因みにさいたま市とは、
浦和市・大宮市・与野市・岩槻市が
合併して生まれた政令都市である。

もともと岩槻は岩槻城の城下町であり、
日光御成街道の宿場町。

しかし何となく浦和や大宮や与野と比べて
地味な感じがするのは単なる私の偏見である。

岩槻は人形の街としても知られており、
実に落ち着いた歴史ある街なのだ。

久伊豆神社から道沿いに歩いていくと、
日光御成道に出た。



「日光御成道」

江戸時代の徳川将軍の
日光社参のために
整備された街道である。

そして龍門寺へと向かう。



街道からまっすぐと伸びた参道。


 

固く閉ざされた山門。

しかし静かに参拝することを条件に、
中に入ることは許されている様子。



静かに。




最初に本堂の前で合掌。



見る人が見れば信仰心が無いのは
バレバレだろうが、
本人は敬虔な気持ちでいるつもりなのだ。

 


境内の案内図。



岩槻藩の割元名主だった
関根家の墓所へ。



割元名主とは

 江戸時代、地方行政にあたった
 村役人の最上位の者

 代官・郡代など地方役人の指揮下に
 数か村の庄屋・名主を支配し、
 年貢の割り当て、訴訟の調停などにあたった

と「大辞林」にはある。


 

関根家は岩槻藩主に依託されて
本宿村を中心として近隣の20ヶ村、
藩領の北半分に当たる
1万石分を担っていたというから
まさに大名主である。

またここには7年前に亡くなった
日本画家の関根将雄さんの墓もあるとのことだが、
絵に教養のない私は

恥ずかしながらその作品を知らない。



この寺のある場所には、
室町時代末期の小田原・後北条氏の

家臣だった佐枝秀成の館があった。

太田氏の居城であった岩槻城が
北条氏康の傘下に下ると、
秀成は城代として岩槻に移り
ここに屋敷を構えた。

そして秀成がその館の中に
開創したのがこの龍門寺である。

当時の土塁が今も残されている。 


 

 

中世の城の醍醐味は、
何と行っても土塁と堀の武骨さである。



ここに堀は残ってはいないものの、
本当の実戦を前提に造られた土塁なのだ。


 

築かれた当時の生々しい迫力が、
今なお強い息遣いで伝わってくる。




 

 

佐枝秀成を祀る「開基霊屋」


 

そしてその奥にある
佐枝秀成の墓。


 

天正18年(1590年)
岩槻城は豊臣軍2万の兵に
攻められて落城。

秀成の嫡男であった植行は
岩槻城の新曲輪で戦死。

しかし植行の妻の宝樹院と
子の種長は逃げ延び、
後に宝樹院が徳川家康の第8子・仙千代の
乳母となったことを縁として、
佐枝氏は尾張徳川家に仕えることとなる。

この秀成の墓は秀成の子孫で、
尾張藩の家老だった
佐枝嘉種によって建てられたものである。

墓標には佐枝氏が徳川の世まで生き延び、
この墓を建てるまでのドラマが
簡潔に刻まれている。