日光街道を歩く:栗橋宿・静御前の墓 | はろはろはうすの<何を食べようか>

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夕べ何を食べたかも忘れてしまうオッサンの、気が向いたらの日記です。

1月4日

日光街道の栗橋宿。

私はここでどうしても
訪れてみたかったところがある。

それは栗橋駅のすぐ近くにある。
 



「静御前の墓」

である。


 

 

静御前は義経を追って奥州平泉に向かう途中、
下総国下辺見辺りで義経の死を知った。

静は京に戻ろうとするも、
悲しみのためこの栗橋の地で病の床に伏した。

そして文治5年9月15日に
22才の生涯を閉じたと伝わる。

そして高柳寺に埋葬された。

高柳寺はその後、
現在の茨城県古河市に移転して
光了寺と寺の名を改めている。

静の墓だけがここに残った。



その墓には墓標がなく
ただ杉の木が植えられていたという。

江戸幕府の勘定奉行で関東郡代であった
中川飛騨守忠英がそれを憐れみ、
享和3年に静の墓に墓標を建てた。

 



今はその墓標も厨子に保管されて代替わりし、
新しい墓が建っている。

 




 

静御前というと、
それはもう美人なのである。

そして彼女の人生のクライマックスは、
何といっても「吾妻鏡」に書かれている

あの名場面

 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 
 入りにし人の 跡ぞ恋しき

 しづやしづ しづのをだまき くり返し 
 昔を今に なすよしもがな

 (吉野山の白雪を踏み分けて
  山の奥深く入っていってしまったあの人が恋しい)

 (静よ静よと繰り返し愛しき彼が私の名を呼んでくれた
  あの昔に戻れるのならどんなに嬉しいことか)

と鎌倉の鶴岡八幡宮で、

静御前が頼朝の前で歌い舞った場面だろう。

1186年4月8日のことである。

この歌は何といっても

「しづや しづ」

と繰り返すところがいいんだな。

愛する男が「静、静」と
繰り返し彼女の名を呼ぶのは

どんな時だろう。

その意味ではとてもエロチックですらある。

彼女はこの「しづや しづ」の5文字で

愛の勝利を高らかに歌っている。
 

私もここまで彼女から

愛されてみたいものだと思う。

その前にお前が愛せるのかという
問題もあるが。

このとき静は妊娠していた。
もちろん義経の子である。

1186年7月29日
彼女は男の子を出産する。

赤子は生まれてすぐに、
頼朝の命によって鎌倉の由比ヶ浜に

捨てられて殺された。

そしてその2ヶ月後の
1186年9月16日。

静は鎌倉から京に戻る。
その後の静の消息は不明とされている。

彼女が義経を追って奥州平泉に向かうのは、
その後のことである。

ここには静御前の墓の横に

「義経招魂碑」

 



そしてその隣に小さな

「御曹司供養塔」

があって哀れを誘う。

 



墓所の隣のCD屋。

CDが売れなくなってきている世の中だ。
なんとか頑張って欲しい。

 



さてそろそろ帰ろうか。

栗橋駅へ。

 

 



越谷に帰るなら

JRでなくて東武線ね。




次は栗橋から古河を目指す。

古河も前から
行ってみたかったところなのだ。

 

さあ、いつ行く?