「血圧が下がっています」
師匠への刺鍼から
2日後。
午前中のこと。
その前の晩。
師匠の容体が心配だった私は、
台北駅近くに取ってあった
ホテルの部屋には戻らず、
ICUに入院している患者の
家族のために用意された
部屋で休んでいた。
ICUと同じフロアにある
この部屋なら、
師匠に何かあっても
すぐに駆け付けられる。
やっぱり。
どこでどう寝ても、
私が見上げる天井は
揺れている。
地震かと思い、簡易ベッドから
起き上がって周りを見渡すが、
部屋が揺れている様子はない。
勘違いだったと安堵し、
もう一度ベッドに横たわるが、
どうしても、天井は
小刻みに揺れていた。
分かっている。
揺れているのは
地面でも建物でもない。
私の脳だ。
疲労。
睡眠不足。
ストレス。
恐怖。
不安。
原因は、こういった
ところだろう。
でも。
どうすることも
できない。
よく眠る。
よく休む。
もちろん。
そうできれば
良かったのだが。
あの時は、
どんなに頑張っても
それは無理だった。
今でも、
そう思う。
もし。
あの日々の記憶を
すべて携えて、
今の私がもう一度
あの時に戻ったとしても、
恐らく無理だろう。
きっと。
師匠の顔を見た時点で、
また眠れなくなる。
あの経験と、あの場で
幾度となく味わった感情は、
耐性とは無縁のものだ。
まったく。
心とは、なんと
切ないものだろう。
誰かが。
大きく暖かく
包み込まなければ、
きっと生き延びられない。
できることなら。
あの日。
あの時。
ベッドで横たわっていた
私に寄り添って、
私の手を握ってあげたい。
その誰かに、
私がなってあげたい。
誰よりも。
あの時の私の気持ちを
知っている私が。
何も言わず。
ただ一緒に。
眠れない夜を
過ごしてあげたい。
不安と恐怖に
押しつぶされそうだった
たくさんの夜を。
誰よりも。
あの日々を生き抜いた私を
私が慰め励まし、そして。
力の限り、
愛してあげたい。
きっと。
私はそのために
生まれてきた。
傍らのベッドでは、
義姉が寝ていた。
寝息が聞こえる。
そう。
眠れていないから
よく聞こえる。
せめて、
眼を閉じて休もう。
眼さえ閉じていれば、
天井が揺れることも
回り出すこともない。
うつらうつらと、
ベッドの上でこんなことを
繰り返しているときだった。
部屋に入って来て告げたのは、
刺鍼を許可してくれた
師匠の担当ドクターだ。
その固く強張った表情と、
どこか逸らしがちな
視線で分かった。
これは、
ただごとではない。
嫌な予感がする。
これまでの経験と
照らし合わせてみても、
師匠の置かれている状態で
血圧が下がるということは、
命の危機と直結している。
飛び起きて、
ICUへと急ぐ。
お願いだから、
誰か違うと言ってくれ。
たった一度くらい、
大丈夫だと言ってくれ。
この時、義姉も同時に
ICUへと向かったはずだが、
私には記憶がない。
師匠のベッド脇にある
バイタルサインの
モニターの隣には、
先程の担当医とは
別のドクターがいた。
このドクターも、
先生の治療にあたって
くれていたひとりだ。
しばらくすると。
先生の弟の妻、
バオメイがやって来た。
やはり。
ただごとでは
なかったのだ。
面会時間外なのに、
彼女が来たのが
その証拠だ。
誰も彼も。
口にこそ出して
言わないが。
その場の空気が
私に告げている。
もう。
お別れなのだと。
涙が滂沱と流れた。
視界が滲んで、
師匠が見えない。
先生の顔が見たくて
ハンカチで涙を拭うが、
次の瞬間には
同じことだった。
「爪が真っ黒よ」
バオメイが
こう言った。
その口調と表情は、
恐ろしいものを見て
しまったという風だった。
師匠の指先に目をやると、
確かに爪の根本が
黒く変色していた。
でも。
それが一体。
今この時点で
何だと言うんだ。
師匠の指先が
たとえ何色だろうが。
それが一体、
何だというんだ。
太くて。
武骨で。
ガサガサで。
しわしわで。
一見、
不器用そうで。
でも。
その指が刺す鍼は、
紛れもなく一流で。
先生は、たくさんの人を
助けてきたのだ。
その黒い指で。
その黒い指は。
お腹が大きかった
私の手を握って、
一緒に朝の散歩道を
歩いてくれた。
その黒い指は。
お腹の中の子が
逆子だと知ると、
分厚い本を捲って
漢方を煎じてくれた。
きっと、
そのお陰だろう。
その次の検診では、
逆子は治っていた。
その黒い指は。
大きく暖かな掌の
先にいつもあって、
決して惜しむことなく、
私に鍼を教えてくれた。
「一生懸命、勉強しないといけないよ。
もし、私が死んじゃったらどうするの?」
先生が死ぬわけない。
そう信じていた
まだ若かった私に、
よくこう言っては、
丁寧に熱心に教えてくれた。
ひとつ質問すると、
答えが十も二十も返ってきた。
こんな師匠が
どこにいるだろう。
その黒い指には。
私の師匠の。
私の夫の。
私の子供たちの父親の。
忘れ得ない、たくさんの
思い出が刻み込まれている。
だから。
お願いだから。
今だけは
何も言わずに
黙っててくれ。
先生の体は
見世物じゃない。
街角のあちこちで
見かけるような。
どこにでもいそうな。
私の師匠は、至極
普通のおっさんだ。
流行を忘れたシャツを着て、
砂埃で汚れたスニーカーを
履いたその姿には、
一条のオーラもなければ、
カリスマ性の片鱗もなく。
帽子を取った頭の
天辺には、髪すらない。
すれ違おうが。
隣にいようが。
害さえなければ、
誰も気に留めないような。
そんな男だ。
そう。
世界中の人たちにとっては、
なんでもない、ただの人。
でも。
このおっさんは、
私にとって神様なのだ。
このおっさんが地球上に
いるのといないのでは、
天と地ほども違う。
もう。
夢も現も
分からない。
悲しいとは、
一体どんな心模様の
ことだっただろう。
こんなふうに、
無力と無常を思い知る
ことだっただろうか。
世の中には、
泣こうが喚こうが
どうにもならないことが
あるのだと。
ICUに入室してから
どのくらいの時間が
経ったていただろう。
「ご臨終です」
ドクターが
こう告げた。
午前10時15分。
師匠のバイタルサインは、
平行線をたどりながら
モニターの端へと流れていった。
私の祈りと
同じ結果だった。
6月下旬の
日曜日。
すっかり夏の盛りを
迎えた台北の空は、
この日もやっぱり、
青く高く澄み渡っていた。
忌々しいまでの快晴。
憎々しいまでの太陽。
いっそのこと。
世界の終りの日まで
ずっとそうやって
晴れてろ。
たとえ。
何が照ろうが。
何が吹こうが。
何が降ろうが。
何が止もうが。
どうでもいい。
かまうものか。
空なんか、
くたばれ。