「私が、ものすごく太っちゃったら、どうする?」
あれはもう。
20数年前。
長男を身籠る
大分前の話。
大昔には、こんなやり取りも
あったということで。
「なんだよ。こいつ、惚気てんのかよ」
こうお読みになったとしても。
もはや時効ということで。
ご容赦くださいますよう。
「それでも好きよ」
後に夫となる地球外生命体は、
このとき、私の問いにこう返した。
ふん。
そうですかい。
「じゃあ、もし。私が火事に巻き込まれて、
顔に大火傷を負っちゃったら?」
これでどうだ。
もう楽になれ。
「どうする?」
生憎。
キャンディキャンディの主題歌的な要素が
私の頭の中で展開したことは
これまでの人生で、ただの一度もない。
そばかすがあれば
気になるだろうし。
自分の鼻ぺちゃを
気に入るような質ではないし。
いわんや。
王子様とやらが囁く
夢のような台詞なんぞ。
そして、恐らく。
この点において、
師匠と私は同類だ。
ある日のこと。
「ある女優さんがね。私を愛するなら、
私のしわも愛してほしいって」
テレビで聞いた話を
伝えたら。
「しわはしわよー」
師匠は笑い飛ばしながら
こう返した。
さすがは治療家。
私は師匠のこういう
ところが好きだ。
体に関することには現実的で、
歯の浮くようなことを言わない。
体表のしわは、
飽くまで、しわ。
それと愛は別物。
こういうことなのだろう。
さあ。
どう出る。
「それでも好きよ」ってか?
このおっさんに限って、
それはないはずだが。
「そしたら、私が治すよ」
このときの師匠の言葉は、
今も私の心を離れない。
そして、
あの日もそうだった。
だから、
今回は私の番だと思った。
刺鍼する部位によっては、
体位を変えてもらわなければ
ならないが、
昏睡状態で寝たきりの先生に、
それはできない相談だった。
そこを助けてくれたのが
ICUの看護師さんたちだ。
ご親切にも、私が刺鍼している間、
師匠の体を支えてくださったのだ。
皆さん、ただでさえ
夜勤で大変お忙しい中、
私の我儘に付き合ってくださった。
ICUには、師匠の他に
何人も患者さんがいた。
きっと。
一般病棟の患者さんより
看護も大変だったはずだ。
余計な仕事が増えて、どれほど
ご迷惑だったことだろう。
今振り返ってみても。
あのときの感謝を十分に
伝えることができるとは、
到底思えない。
きっと、
言葉では無理だ。
それでも。
それでも。
皆様。
その節は、
大変お世話になりました。
お忙しい中、私の勝手をご理解いただき、
また、とても親身になっていただき、
どれだけ助けていただいたか分かりません。
本当にありがとうございました。
心より御礼申し上げます。
師匠から教わったことを
総動員して臨んだ。
少なくとも、
そのつもりだった。
先生、お願いですから。
少しでも
良くなってください。
まず、仰向けから。
師匠の鍼は、
いつもそうだ。
この体位で刺鍼する分には、
看護師さんたちに
お手伝いいただく必要は
ないのだが、
私一人では難しいのが
うつ伏せだった。
ただ。
そもそも。
師匠の体には、機械から
何本もの管が通されているため、
体をひっくり返して
背中を上にすること自体が
無理だった。
背中にあるツボに
鍼を刺すためには、
管が外れるなどといった
支障が出ないよう注意を払いつつ、
師匠の体を横向きにし、
その姿勢を保ったまま臨むしかない。
看護師さんたちに
助けていただいたのは、
このときだ。
先生なら
どうするだろう。
ベッドに横たわっているのが
私だとしたら。
師匠なら、どこに
どんなふうに刺すだろう。
あの夜。
あのとき。
私は、ひたすら
こんなことを考えながら
鍼を刺した。
刺鍼後。
看護師さんたちに
お礼を申し上げた後で
気が付いた。
向かって右側の
耳の裏に一本。
抜き忘れた鍼があった。
心中慌てつつも、
慎重に抜いたつもりだった。
だが、鍼を抜いた跡からは
出血していた。
大失態だ。
どこまで至らない
弟子なんだろう。
ベッドの傍らのテーブルにあった
ティッシュでその血をふき取り、
急いで師匠の顔を覗き込む。
その表情は、苦悶し、
歪んでいるように見えた。
泣いているようにも。
わらって わらって わらって
キャンディ
なきべそなんて サヨナラ ね
キャンディ キャンディ
やっぱり。
キャンディキャンディの
主題歌的な要素は、
見つかりそうにない。
今この瞬間も
涙がこぼれては
流れ落ちていく。
そして、これは。
私が一生
背負っていく涙だ。
先生。
ごめんなさい。
一体。
あの夜のことを
どう償ったらいいのか。
いつまで経っても。
今日まで待っても。
私には分からない。
私がこの世を去るまでに
分かる日が来るのか。
実際に
償えるのか。
それとも。
来世まで
持ち越すのか。
私には、何も
分からないままだ。
先生、せめて。
大きな声で
叱ってもらえませんか。