やっぱり。
師匠を見ている私の表情は、
傍から見ても、恐ろしいもの
だったんじゃないだろうか。
ある日。
若い女性に
声をかけられた。
先生のベッドの傍に
立っていた時のことだ。
「私はソーシャルワーカーです。」
何というか。
こう...
こちらの表情を伺いながらと
でもいうような。
恐る恐るといった感じの。
話しかけていいものかどうか
迷った末、及び腰ながら、
とでもいう雰囲気だったような。
「はい?」
拝見したところ、
まだ20代だろうか。
だとすれば、
恐れをなすのも無理はない。
見たところ、自分よりも
随分と年上の女が、
怖い顔をして、
思い詰めたような表情で、
一点をずっと凝視している。
その視線の先には、
横たわる重篤な夫。
下手に話しかけて、怒鳴られでも
したらどうしよう...
お姉さんが、こう思ったとしても
何ら不思議はない。
お気の毒に...
怖がらせていたようで、
あの時は、どうもすみませんでした。
これも。
今だから、こう思える。
「私に何かできることはありませんか?」
これは私の想像だが。
ICUの誰かが、師匠のベッドの脇で
強張って固まっている私の姿を見かねて、
このお姉さんを
呼んだのではないだろうか...
やばい女がいると。
「ありがとう。何かあったら、そのときはお願いします。」
話をすれば、私の気が紛れ、
気持ちが晴れるのではと、
気遣ってくれたのだろうか...?
あるいは。
具体的に、何らかの助けを必要を
しているのかもしれないと。
さもなければ。
切羽詰まったような、この女。
何かをやらかすかもしれないと。
お気持ちは、
とても有難い。
ご心配をかけて
申し訳ないとも思う。
ただ。
私自身、残念だが。
あの時の私は、誰かと話せば
少しは楽になるかもしれないという
域を越えたところにいた。
ほんの僅かでもいい。
少しでも師匠に回復の兆しが
見えること以外、もうどんなことも
私の気休めにはならなかった。
だからと言って。
自棄になって大暴れしたり、
人様や自分自身を傷つけよう
などという気持ちもなかったが。
「分かりました。何かあったら、声をかけてください。」
色々な人が、協力しようと、
助けようとしてくれる。
力になれないかと、
寄り添ってくれる。
皆さんのそのお気持ちが、
なんとか形になって
先生の体に届かないものだろうか...
「こんにちは。」
ソーシャルワーカーのお姉さんと
同じ日だったか、別の日だったか。
師匠のベッドの傍に立っていると、
今度は初老の女性に声をかけられた。
お姉さんは英語だったが、
この女性は日本語だ。
アクセントから、
台湾の人らしいことが伺える。
「こんにちは。」
口にこそ出さないが、どうやらこの女性も、
私の状況を知っているらしい。
少し話をした後、
「私はね。リンパの癌。ステージⅣ。10年になるの。」
え...?
実にさらっと、
こうおっしゃる。
「あの... お体、大丈夫なんですか...?」
10年間、癌だとおっしゃっている方に
こうお訊きするのは失礼かとは思ったが、
思わず自分の耳を疑うほど驚いた
私の口からは、こんな言葉が
飛び出してしまっていた。
「毎日、笑ってね。笑って生きていれば、大丈夫。」
静かにだが、明るく、尚且つ
とても上品にこうおっしゃる。
無理矢理、思い込もうとしているような。
あるいは、誰かを説得しようとするような。
そんな、力尽くな
口振りは一切ない。
固い信念を感じさせるような
様子でおっしゃるわけでもない。
例えるなら。
まるで、風が向こうから吹いてきて、
目の前を通り過ぎ、あちら側へ流れて行く
ような、とでも言うべきか。
水が高いところから
低いところへと流れて行くような、
とでも言うべきか。
何の抵抗も気負いも理不尽も覚えず、
ただ自然のまま、感じるがままを
口にしているといったご様子なのだ。
世の中には、すごい人がいる...
「私は毎週水曜日、ここでボランティアをしています。
必要な時は、声をかけてください。」
10年間、癌と共存しながら、
病院でボランティア...?
世の中には、本当にすごい人がいる...
ご自身、治る保証があると
いうわけでもなさそうなのに...
症状が完治した後でのことなら、
この女性のボランティア活動も
驚くことなく理解できる。
「私もそうだったから。」
と。
でも。
「私もそうなの。」
こう言って寄り添う。
この女性には、心底魂消た。
何より、心から敬服した。
共感を求めるわけでもない。
憐憫というリスクも厭わない。
一体、誰なんだ。
この人は。
人間に姿を変えて
現れた菩薩なのか。
何かの化身なのか。
ぞれとも。
悟りの境地に至った
生身の人間なんだろうか...
色々と、お話をお聞きしたい。
実は、この時、
こう思っていた。
でも。
やっぱり。
あの時の私は、どうしても
師匠のことが気がかりで仕方なく、
心も体も、その場から一歩を
踏み出すことができなかった。
きっと。
せっかくお話を伺っても、
どこか上の空だっただろう。
当時の自分を振り返ってみれば、
仕方のないことだったと思う。
でも。
今となっては、心残りだ。
あの女性は、
今どうしているだろうか。
お名前も知らない。
お顔も覚えていない。
道ですれ違っても、お互いに
気がつくことはないだろう。
でも。
私には、かけがえのない恩人だ。
お元気でいらっしゃるだろうか。
病院でボランティアを続けて
いらっしゃるだろうか。
もう一度お会いできるものなら、
是非とも、お目にかかりたい。
あの時のお礼を申し上げたい。
お気遣い頂いたお礼を。
そして。
今度こそは。
色々とお話を伺いたい。
この女性のことを思い返す度に、
数年前に書いた記事を思い出す。
人は星。
だから輝く。
綺羅、星の如く。
それぞれの光で、
それぞれの明るさで、
この世を照らしている。
歴史に名を残すような偉人だけが。
全身にオーラをまとっているような
高名な人だけが。
偉いわけじゃない。
すごいわけじゃない。
改めて、こう思う。
そして。
こうも思う。
やっぱり、
この世は陰と陽。
悲しみには、励ましが。
苦しみには、慰めが。
どこからともなく現れて、
懐かしい友達のように
そっと寄り添う。
どうやら人は、
ひとりではないらしい。