日々、記憶と感情が風化していく。
やっぱり、書かなければいけない。
すべてがさらさらと流れて行って
無くなってしまう前に。
平成26年。
2014年。
5月16日。
金曜日。
当時、私が開業していた鍼灸院に
入っていた予約が午後1時。
ちょうどお客さんが来院した
すぐ後のこと。
電話が鳴った。
お客さんに断って、その電話に出た。
「こんにちは。○○さんですか? 私は洪と言います。
以前、バオメイと一緒に働いていたことがあります。」
は...? 一体、誰なんだ?
バオメイの元同僚ってことか...?
バオメイは、台北に住む師匠の末弟の
奥さんで、私の義妹に当たる人だ。
もっとも、妹といっても50代で
私よりずっと年上だが。
ということは、この電話は台湾から...?
にわかに頭の中が混乱し始めた。
「はい?」
「14日の夜、あなたの旦那さんが台北の病院に入院しました。
とても危ない状態だそうです。」
この瞬間、頭の中が真っ白になった。
同時に、体中の血の気が
引いていくのを感じた。
「ええっ!?」
いきなり何を言うんだろう。
全く見ず知らずのこの人は。
「すぐ台湾に来て欲しいそうです。」
私の中国語は最高級にお粗末だ。
わずかな文章と、ほんの少しの
単語しか知らない。
それを知っているバオメイは、
日本語が話せる元同僚に頼んで、
私に師匠の状況を伝えてもらうことにしたのだ。
この後、洪さんと何を話したのかは、
ほとんど覚えていない。
とにかく動揺していた。
きっと、色々と師匠の様子や状況を
訊いてみたんじゃないかと思う。
「ファックスありますか?」
「はい。」
「この電話の後、病院の名前と住所をファックスします。」
「はい。お願いします。ありがとうございます。」
「○○さん、大丈夫ですか?」
「はい。」
大嘘だった。
電話を切った後、診察室に戻った。
両方の掌が冷え切った感覚は
電話に出たときのまま戻らない。
真っ白だった頭の中は、今度は
師匠のことでいっぱいになった。
とにかく。
お客さんがいる。
呆然としたままで
いるわけにはいかない。
2度目の来院だった、このお客さん。
どこに行っても治らなかったけど、
うちで鍼を刺したら良くなったと話してくれた。
だから、期待を裏切るわけにはいかない。
平常心を総動員して施術した。
いや。
総動員して施術したつもりだった。
後日、私はこの日の施術を
心底後悔することになる。
結局、このお客さんの期待を
裏切る結果になってしまったから。
あの日の施術は断念するべきだった。
「申し訳ありません。実はたった今、夫が入院したという電話がありました。
とても危ない状況で、すぐ来てくれとのことなんです。」
正直にこう話して、緊急事態なので
どうかお許しくださいと、平身低頭お詫びして、
あの日はお引き取り願うべきだったのだ。
わざわざ来て頂いた挙句に、
ご迷惑をおかけすることになっても、
結果的には、それがお客さんのためだった。
あの時の私の施術は、
“心ここにあらず” そのものだった。
そんな鍼が効くはずもない。
少なくても、私が師匠から教わっていた鍼は、
施術する人間が心身ともに平安で健康で、
なおかつ鍼に集中した状態でなければ全く効かない。
そんなことは、過去に師匠に叱られて
分かっていたはずなのに。
あの日。
あの電話の直後に、そんな状況を
望めるわけはなかったのだ。
事実。
後日そのお客さんに電話して、
施術後の様子を訊いてみると、
こうおっしゃった。
とても言いにくそうな感じが、
受話器越しに伝わってくる。
「うーん... なんか効かなかったみたいで...」
「え? 全然良くなりませんでした?」
「そうねえ... 1回目の時は良かったんだけどね...」
効かなかったのだから申し訳ないと、
施術代の返金を申し出たが、お客さんは固辞された。
私は確かに1回目と同じように鍼を刺した。
でも、結果はお客さんの言葉に集約されている。
心の伴わない仕事に結果はついてこない。
痛恨の大失敗だった。

