海外旅行から帰ってきて、パリのCafeで飲んだコーヒーが美味しかったと聞く。
しかし、私自身の経験では最低のテーストであったと言い切れる。
この事は“美味しい”と言う言葉の中に秘密が隠されていたから起こる事であった。
 そもそも言葉は相手や大勢に自分の気持ちを伝えたり、反対に相手の気持ちを解る道具として発展してきたはずである。
日本語は複雑で難しいと言われるが、最適な表現をするのに細分化してきたので複雑になった。
 発売されて間もないデジカメの画素数は30万足らずであった。
より鮮明に表現する・したい ので今や1000万にも細分化されている。
少し話がそれたが、今でも“美味しい”の言葉は細分化されずに沢山の意味を含んしまっている。
ここに見えない問題が起きている。
ある人が美味しく感じた事は、実はテースト以外の別の事で感じていたモノであったが、人に伝える時の表現が美味しいしか存在していなかったので“美味しい”と発してしまった。
更に、使っている人のそれぞれが、全くその事に気付かず使っている。
聴いている人もそこに気付かずに取り入れてしまっている。
発信している信号と受信側の解析方法が異なってギャップがあるにもかかわらず美味しいが蔓延してしまった事ではないか。
逆に、不味いという言葉は使用範囲が限られる。
その1つに“不味い”は聞き手に対して不快な思いをさせるからと思われる。
なるべく、その輪を広げないように自制させるのではないか。
 また、環境や精神・身体の状態がネガティブorポジティブ方向に向かっているかによって、味に対する感覚や表現に優先順位があるはずである。
たとえば、こんな経験はないだろうか?
歯が痛いという身体的もしくは精神的にネガティブ方向に向かっているときに、味に対する感覚の優先順位は下がり歯の痛みの方ばかりに気が行っているのではないか。
逆に気持ちが高ぶる環境。旅行先できれいな景色を眺め精神的ポジティブ方向に向かっているときは、味に対する優先順位が上がり、少しの美味しさが倍増されて景色の美しいとともに記憶が鮮明に残った思いではないか。
 更に、欲求しているときの美味しさの倍増感受性。
スポーツ後の乾ききった体内に水分を補給するときの感覚は、ただの冷水でも美味しく感じるモノである。
上記のように美味しいを判断するするのは、舌や鼻にある感覚器官だけではない。
 このように考えて行くと、パリの風景・乾燥した気候・旅行先の期待感のど精神的にポジティブ方向に向かう要素が重なり合った事によって美味しさが倍増したと思われる。