先週の水曜日、インターン先のお手伝いの関係で、人生初の呼び込み係をやった。ビラを配りながら通りがかる人たちに声をかけるというお仕事だ。これが私にとって非常に良い経験になった。
駅前でティッシュやビラを配っている人たちを見かけながら、私は昔から「よく拒否されてもめげずにやってられるなぁ」と感心していた。それと同時に、「私には絶対できない仕事だな」とも思っていた。大勢の人に自分が差し出したものを拒否されるとは、どれほどの苦痛なのだろうと想像するとそれだけで胸が痛かったからだ。
それが今回、突然ビラ配りをすることになった。
最初は緊張して声をかけるのが難しかったが、周りに私よりも緊張している人がいたため何かが吹っ切れた。不安に思っていたほどつらくもなかった。むしろ、断られるという残念な気持ちよりも受け取ってもらえた時のありがたさや嬉しさのほうが上回って楽しかったくらいだ。
今までの私は他人に拒否されるということに過剰な恐怖を抱いていた。しかし、今回のビラ配りを通じて、むしろ受け取ってもらえた時の嬉しさのほうがつらさを何倍も上回るという貴重な経験を得た。
「いらない」と拒否する方には拒否する理由がある。その理由は私の行動とは別次元のところで動いている。だから、私が提供したいものと相手が欲しがっているものが一致するという奇跡が本当にありがたく、嬉しいのだ。
他人に否定されるつらさよりも、肯定してもらえる嬉しさのほうが何倍も強い。
多分、今度他人に自分の意見を否定されたり批評されたりしても、私はそれを素直に聞きながら必要な部分以外は受け流すことができると思う。
ビラ配り、侮りがたし。
今週は就活をしてみた。
先週の日曜日、東京キャリアフォーラムという日英バイリンガルのための就活イベントに参加してきた。私はまだ大学1年生を終えたところで専攻も決めていないのだが、現在のインターンシップ先でやっていることが就活関係であるためどうしても焦ってしまう。どうせ焦るくらいなら就活生に混じって就活をしてみようということで、キャリアフォーラムに参加してきた。
また、TOP CAREERSという組織が運営する社会人との交流イベントにも昨日の夜参加してきた。レストランの二階という狭い会場に社会人20人と学生70人以上が集まって、働くとはどういうことなのかを知るというイベントだった。
結論から言って、この二つのイベントに参加したことは私にとって非常に有意義であった。現状の自分の能力や進んできた道を肯定しやすくなったからだ。
イベントに参加して一番心に残ったのは、多くの企業(外資も含む)は文系の学生を新卒採用するとき、学部は重視しないということだった。今まで私は「こうすれば就職に有利」とか「こういうことをすれば自分のブランド価値が上がる」とかいったみみっちくも悲しい思考をして、必死に自分の価値を作り上げようとしていた部分がかなりあった。
リベラルアーツでなくビジネスに進んだのも、「世間の目」というものを多少なりとも意識して選んだということは否めない。正直に言うならば心理学や哲学のほうが個人的な好奇心を満たす学問だ。
だがどの社会人と話しても(人事を担当する方ならなおさら)結局彼らが言うことは同じである。
「大学で学ぶことは社会に出て全く役に立たないから好きなことをやればいい」
これは大学進学を選んだ人を馬鹿にしているのかとも思ったことがあったが、彼らの真意は違った。企業は、大学の専攻では採用しないのである。これは私にとって目からウロコが落ちる事実だった。
なんだ、話は簡単だったじゃないかと、心が軽くなった。
(最近の若者言葉は好きではないが)良い意味で社会は私にさほど興味は持っていないのだ。つまりは「世間の目」というものは私の自意識過剰ということだ。情報が足りない時の先入観と決めつけいうのはなんとも恐ろしいものである。
では専攻学部で学生を見ないなら、企業は何を見て採用しているのか。
諸説あるだろうが、私は「人格」ではないかと思う。
何年間、下手をすれば(うまくすればともいう)何十年間と共に働く仲間を募るのだ。長期的な視点で見れば、向上心と人並みの物覚えの良さという条件さえクリアしていれば、後は社風に合った人を探すだけだ。これは「一緒に働いていて気分がいい人を探す」ということである。
一緒に仕事をして楽しい人、気分がいい人とはつまり、人柄が良いということでないかと私は思うのだ。
であれば、私が職にあぶれないためにやることは一つである。そしてそれは今までと何ら変わりなく、私が進んできた道が私なりに正しかったということの証明になる。
「良い人」であること。まだもやっとしてふわっとした信念のようなものに従うこと。自分にうそをつかないこと。初対面から親友と思えるようなコミュニケーション能力を目指して鍛えること。常に物事をバランスよく眺めること。
…あー、よかった。
自分は自分でいいのかと自問するときが、私にとって実はかなりの負担になるのだ。人間は人生を肯定するために生きるとはよく言ったものである。
今週は「モヤモヤモヤモヤ」が「モヤモヤモヤ」くらいには減った気がする。
全部晴れないところが私らしい(笑)
先週の日曜日、東京キャリアフォーラムという日英バイリンガルのための就活イベントに参加してきた。私はまだ大学1年生を終えたところで専攻も決めていないのだが、現在のインターンシップ先でやっていることが就活関係であるためどうしても焦ってしまう。どうせ焦るくらいなら就活生に混じって就活をしてみようということで、キャリアフォーラムに参加してきた。
また、TOP CAREERSという組織が運営する社会人との交流イベントにも昨日の夜参加してきた。レストランの二階という狭い会場に社会人20人と学生70人以上が集まって、働くとはどういうことなのかを知るというイベントだった。
結論から言って、この二つのイベントに参加したことは私にとって非常に有意義であった。現状の自分の能力や進んできた道を肯定しやすくなったからだ。
イベントに参加して一番心に残ったのは、多くの企業(外資も含む)は文系の学生を新卒採用するとき、学部は重視しないということだった。今まで私は「こうすれば就職に有利」とか「こういうことをすれば自分のブランド価値が上がる」とかいったみみっちくも悲しい思考をして、必死に自分の価値を作り上げようとしていた部分がかなりあった。
リベラルアーツでなくビジネスに進んだのも、「世間の目」というものを多少なりとも意識して選んだということは否めない。正直に言うならば心理学や哲学のほうが個人的な好奇心を満たす学問だ。
だがどの社会人と話しても(人事を担当する方ならなおさら)結局彼らが言うことは同じである。
「大学で学ぶことは社会に出て全く役に立たないから好きなことをやればいい」
これは大学進学を選んだ人を馬鹿にしているのかとも思ったことがあったが、彼らの真意は違った。企業は、大学の専攻では採用しないのである。これは私にとって目からウロコが落ちる事実だった。
なんだ、話は簡単だったじゃないかと、心が軽くなった。
(最近の若者言葉は好きではないが)良い意味で社会は私にさほど興味は持っていないのだ。つまりは「世間の目」というものは私の自意識過剰ということだ。情報が足りない時の先入観と決めつけいうのはなんとも恐ろしいものである。
では専攻学部で学生を見ないなら、企業は何を見て採用しているのか。
諸説あるだろうが、私は「人格」ではないかと思う。
何年間、下手をすれば(うまくすればともいう)何十年間と共に働く仲間を募るのだ。長期的な視点で見れば、向上心と人並みの物覚えの良さという条件さえクリアしていれば、後は社風に合った人を探すだけだ。これは「一緒に働いていて気分がいい人を探す」ということである。
一緒に仕事をして楽しい人、気分がいい人とはつまり、人柄が良いということでないかと私は思うのだ。
であれば、私が職にあぶれないためにやることは一つである。そしてそれは今までと何ら変わりなく、私が進んできた道が私なりに正しかったということの証明になる。
「良い人」であること。まだもやっとしてふわっとした信念のようなものに従うこと。自分にうそをつかないこと。初対面から親友と思えるようなコミュニケーション能力を目指して鍛えること。常に物事をバランスよく眺めること。
…あー、よかった。
自分は自分でいいのかと自問するときが、私にとって実はかなりの負担になるのだ。人間は人生を肯定するために生きるとはよく言ったものである。
今週は「モヤモヤモヤモヤ」が「モヤモヤモヤ」くらいには減った気がする。
全部晴れないところが私らしい(笑)
先週は大阪で参加したいセミナーに行ってきた後、その足で京都に一泊してきた。(スマホでブログを更新すればよかったと気が付いたのはずいぶん後だったのだけれど。)その時に感じたことと、あとから気が付いたことで書いておくべきだなと思ったことがある。
少し前に「心のブロックを外す」というテーマでブログ記事を書いたが、今回大阪のセミナーに行ったのも「お金のブロックを外す」という内容だと知ったからだった。
突然だが、私は小さいころからお金持ちになるのが野望だった。といっても、つい最近までやっていた「お金持ち入門10億円宝くじ」のCMに出てくるようなこれ見よがしな「お金持ち」じゃなくて、好きなものを好きな時に手に入れられるという幸せがほしかったのだ。
ところがどうも、お金を受け取ったり使ったりすると考えると罪悪感がわくし、お金は汚いと心の隅で思ってしまう。お金に関してのブロックがあると、「金が俺を好きなんだ」と言い切るような生活はできない(笑)ブロックを外すためにセミナーに参加してきた。
ところがセミナーに参加して自分を見つめなおしている最中、特に何もしていないのに肩が張ってしまい、しばらくそれを無視しているとかなりの吐き気に襲われてしまった。自分の潜在意識が「現状を変えたくないよ!」と叫んでいる状態である。「どんだけ現実を変えたくないんだよ(笑)」と自分に突っ込みを入れつつもモヤモヤした感情とすっきりしない頭でセミナーを終え、気が付けばなんとなく京都に行きたくなり一泊したのだった。
実家に帰ってそのことを母に伝えると、自分でも全く気が付かなかったことを客観的に教えてもらった。
母曰く。
「のんちゃん(私)は独立心旺盛で、経済的な豊かさを得たいのも自分で自分を支えるためだと常日頃言っている。それは親に対しての経済的な依存から早く脱却したいとも言っている。しかし経済的に依存しているというのは親と一種の関係性を持っているという証明であるから、心の中では経済的な依存から脱却することで親との関係が切れてしまうことを恐れているのではないか。」
言われてみてハッとした。まさにその通りだったからだ。
母とは中高時代も毎日顔を合わせてくだらないこともそうでないこともいろんなことについて会話していたが、忙しい父とはたまに目的のある会話をすることがほとんどだった。その分父と会う時の時間は大切にしてきたつもりだったけれど、心のどこかで「私が経済的に自立してしまったらそのほかのことで私が父を必要とすることは許されないのではないか」などと考えていたらしい。
潜在意識というのは正しいことも間違ったことも全部ひっくるめての「思い込み・考え方」なので、たまに突拍子もないことを考えているのだということがよく分かった。
だが悶々と悩む中で先日ふと気が付いたことがある。
それは、心の中にブロックがあろうがなかろうが、結局のところあまり人生には関係ないということだ。
心の中にブロックがあってもそれを無視して行動がとれるならブロックはあってないようなものだし、逆にブロックがなくても行動できないならブロックがあって動けないのと同じである。
心の中にはいろんな思い込みがあって、すべてを解除するのは不可能だ。だったら記憶があいまいになっちゃうとか手が震えるとか、そういう面倒なことを引き起こすくらい大きいブロックだけセミナーやセラピーで解除して、あとは無視して行動してしまえばいい。
ちょっとだけ何かが吹っ切れた(考えるのに疲れて面倒になったともいう)一週間だった。
少し前に「心のブロックを外す」というテーマでブログ記事を書いたが、今回大阪のセミナーに行ったのも「お金のブロックを外す」という内容だと知ったからだった。
突然だが、私は小さいころからお金持ちになるのが野望だった。といっても、つい最近までやっていた「お金持ち入門10億円宝くじ」のCMに出てくるようなこれ見よがしな「お金持ち」じゃなくて、好きなものを好きな時に手に入れられるという幸せがほしかったのだ。
ところがどうも、お金を受け取ったり使ったりすると考えると罪悪感がわくし、お金は汚いと心の隅で思ってしまう。お金に関してのブロックがあると、「金が俺を好きなんだ」と言い切るような生活はできない(笑)ブロックを外すためにセミナーに参加してきた。
ところがセミナーに参加して自分を見つめなおしている最中、特に何もしていないのに肩が張ってしまい、しばらくそれを無視しているとかなりの吐き気に襲われてしまった。自分の潜在意識が「現状を変えたくないよ!」と叫んでいる状態である。「どんだけ現実を変えたくないんだよ(笑)」と自分に突っ込みを入れつつもモヤモヤした感情とすっきりしない頭でセミナーを終え、気が付けばなんとなく京都に行きたくなり一泊したのだった。
実家に帰ってそのことを母に伝えると、自分でも全く気が付かなかったことを客観的に教えてもらった。
母曰く。
「のんちゃん(私)は独立心旺盛で、経済的な豊かさを得たいのも自分で自分を支えるためだと常日頃言っている。それは親に対しての経済的な依存から早く脱却したいとも言っている。しかし経済的に依存しているというのは親と一種の関係性を持っているという証明であるから、心の中では経済的な依存から脱却することで親との関係が切れてしまうことを恐れているのではないか。」
言われてみてハッとした。まさにその通りだったからだ。
母とは中高時代も毎日顔を合わせてくだらないこともそうでないこともいろんなことについて会話していたが、忙しい父とはたまに目的のある会話をすることがほとんどだった。その分父と会う時の時間は大切にしてきたつもりだったけれど、心のどこかで「私が経済的に自立してしまったらそのほかのことで私が父を必要とすることは許されないのではないか」などと考えていたらしい。
潜在意識というのは正しいことも間違ったことも全部ひっくるめての「思い込み・考え方」なので、たまに突拍子もないことを考えているのだということがよく分かった。
だが悶々と悩む中で先日ふと気が付いたことがある。
それは、心の中にブロックがあろうがなかろうが、結局のところあまり人生には関係ないということだ。
心の中にブロックがあってもそれを無視して行動がとれるならブロックはあってないようなものだし、逆にブロックがなくても行動できないならブロックがあって動けないのと同じである。
心の中にはいろんな思い込みがあって、すべてを解除するのは不可能だ。だったら記憶があいまいになっちゃうとか手が震えるとか、そういう面倒なことを引き起こすくらい大きいブロックだけセミナーやセラピーで解除して、あとは無視して行動してしまえばいい。
ちょっとだけ何かが吹っ切れた(考えるのに疲れて面倒になったともいう)一週間だった。
私は昔からどこか哲学的な部分があって、探求心が強い。特に自分のアイデンティティに関してはもう覚えていないほど小さなころから考え続けてきた。生まれたときから自分探しの旅を続けているような気分だ。
今までいろんな角度から自分を見てきた。
音楽で表現する自分。
手芸で表現する自分。
文章を書いて表現する自分。
面白そうだと選ぶ本からわかる自分。
日記に書くことで見えてくる自分。
SNSに投稿する内容から見えてくる自分。
中でも一番インパクトが強かったのが、「着る服からわかる自分」だった。
私には似合う服と、似合わない服がある。
一年ほど前にそのことを知った時は、実はかなりショックだった。
私があこがれていたのは妖精みたいなフリフリでふわふわした服。日本の女子が一般的に「かわいい~!」というようなもの。
私に似合うのはカチッとしたフォーマルなスーツやかっこいいシンプルな服。「ふわふわお姫様」や「かわいい」からは程遠いものだった。
暖色系はピンクや赤などは着られるけれどオレンジや黄色は苦手で、パステル系は印象がぼやけるから似合わない。緑色も難しい。
スウィートやノンノみたいな「日本の女子が読むかわいい雑誌」に載っている服はまず似合わなかった。ヴォーグや姉キャンが私のスタイルらしい。
かわいいものが似合わない自分を知った時は、「どうしてかわいくなれないの?!」とやり場のない怒りに振り回された。似合う服や色といったものは生まれつきの肌の色で大体決まってしまう。
でも結局あきらめるしかないものだということに、しばらくたってから気が付いた。生まれ持ってきたものは変えようがないのだから、せいぜいそれをきれいに見せる方法を学んで、武器になるくらい使えるようになるまで鍛えればいいという風に考えるようになった。
今までの自分は世間一般の女子があこがれるようなものにあこがれて、手に入らないものを手に入れようと必死になっていた。自分じゃない何かになろうとしていた。
これって、すさまじく不自然なことじゃないだろうか。
世の中はどんどん便利になって、今では生まれた顔と違う顔を整形で作ることができる。気に食わないことがあればお金を積めばたいがいのことは解決してしまう。だからこそ「どうにもならないことがある」という大切なことを忘れてしまうのだ。どうにもならないことを受け入れれば、別の未来が見えてくるのに。
今なら言えることがある。
可愛くなくていい。それは私のキャラじゃない。クイーンはプリンセスにはなれないものだ。だから美しくあれ、気高くあれ、優しくあれ。
…がんばれ自分!
今までいろんな角度から自分を見てきた。
音楽で表現する自分。
手芸で表現する自分。
文章を書いて表現する自分。
面白そうだと選ぶ本からわかる自分。
日記に書くことで見えてくる自分。
SNSに投稿する内容から見えてくる自分。
中でも一番インパクトが強かったのが、「着る服からわかる自分」だった。
私には似合う服と、似合わない服がある。
一年ほど前にそのことを知った時は、実はかなりショックだった。
私があこがれていたのは妖精みたいなフリフリでふわふわした服。日本の女子が一般的に「かわいい~!」というようなもの。
私に似合うのはカチッとしたフォーマルなスーツやかっこいいシンプルな服。「ふわふわお姫様」や「かわいい」からは程遠いものだった。
暖色系はピンクや赤などは着られるけれどオレンジや黄色は苦手で、パステル系は印象がぼやけるから似合わない。緑色も難しい。
スウィートやノンノみたいな「日本の女子が読むかわいい雑誌」に載っている服はまず似合わなかった。ヴォーグや姉キャンが私のスタイルらしい。
かわいいものが似合わない自分を知った時は、「どうしてかわいくなれないの?!」とやり場のない怒りに振り回された。似合う服や色といったものは生まれつきの肌の色で大体決まってしまう。
でも結局あきらめるしかないものだということに、しばらくたってから気が付いた。生まれ持ってきたものは変えようがないのだから、せいぜいそれをきれいに見せる方法を学んで、武器になるくらい使えるようになるまで鍛えればいいという風に考えるようになった。
今までの自分は世間一般の女子があこがれるようなものにあこがれて、手に入らないものを手に入れようと必死になっていた。自分じゃない何かになろうとしていた。
これって、すさまじく不自然なことじゃないだろうか。
世の中はどんどん便利になって、今では生まれた顔と違う顔を整形で作ることができる。気に食わないことがあればお金を積めばたいがいのことは解決してしまう。だからこそ「どうにもならないことがある」という大切なことを忘れてしまうのだ。どうにもならないことを受け入れれば、別の未来が見えてくるのに。
今なら言えることがある。
可愛くなくていい。それは私のキャラじゃない。クイーンはプリンセスにはなれないものだ。だから美しくあれ、気高くあれ、優しくあれ。
…がんばれ自分!
今週は浄化された気分がする出来事があった。何気なく買った一冊の本が、すごく私の心を揺さぶったのだ。
有名なセラピストでよくテレビに出ている心屋仁之助さんという人がいる。
この間あまり元気が出ない時があって、たまたまスーパーにちょこっと置いてある書籍を何気なくのぞいたことがあった。その時に心屋さんが著者ということと、タイトルだけを見てあまり悩まずに「一生お金に困らない生き方」という本を買った。
サッと読み進めていったが、「あなたと親の関係についてのあなたの思い込みは、将来の人間関係に反映される」「豊かさを受け取ることを自分に許していないと、お金も上手に受け取れない」というようなことが書かれてあった。それもそうか、と妙に納得して、じゃあ自分が豊かになることを許すとはどういう風に行うのかとページをめくると、「お母さんはかわいそうではなかった」「お母さんは幸せだった」と理解することが重要らしい。これは声に出してみて少し涙が出てきたけれど、さほど問題ではなかった。実際母に聞いてみれば幸せらしいし、私も成長した今なら母が本当に自分の人生に責任を持つことに幸せを感じていることがわかる。
問題だったのは次のページだった。
「反抗期が上手にできなかったと思う人は、母親に対して(直接でなくてもいいので)『くそばばあ』と三回言ってみる」と書かれていた。
本心から思って言う必要があるものでもないし、別に私の母なら笑い飛ばすだろうという確信があったにもかかわらず、結局その言葉が言えずに母の部屋の前で一時間近くウロウロしていた。今考えるとかなり笑える光景だ。
心屋仁之助さんといえば、テレビで芸能人などを相手に「言えない言葉を言ってもらう」というセラピーで有名だが、実際に自分が「言えない言葉」を持っており、それを乗り越えるという経験をする日が来るとは思わなかった。
なぜ母親に対して冗談でも「くそばばあ」と言うことができなかったのか。
罪悪感の様なものがどこか心の底にくすぶっていたのだと思う。もっと「良い子」であれば母が苦労しなかったんじゃないかとか、幸せになったんじゃないかとか。母が本当に苦労していたのか幸せではなかったのか全く確認も取らず、子供の思い込みでそう信じていた。私が迷惑じゃないだろうか、いや、迷惑であるはずだ、だから申し訳ない、と勝手に考えて自分を痛めつけていたみたいだ。別にそんなことを考える親じゃ無いって、少しでも真実のみを見ようとすればわかるようなことなのになぁ。
結局は、私は母親に嫌われることを極度に恐れていたようで、「くそばばあ」なんて暴言は死んでも吐けないと思っていた。けれど、言えば何かが変わると信じて、数時間母の部屋の前でウロウロした挙句本人に言ってみた。
結論。
恐れていたようなことは一切なし。むしろウロウロしていた私を見て「なんかかわいかった」と言って笑っていた。
やってみてよかったと思う。というのも、母と自分の人生の線引きができた気がするからだ。今までは母親の価値観と自分の価値観がごちゃ混ぜになっていたけれど、「くそばばあ」と言ってみて相手をいったん「自分とは別の人」と認識することで、より「自分」という存在に集中できるようになった気がする。
もう罪悪感を抱かなくていいから、私は自分の豊かさと幸福を求めていいのだな、と。
あー、これが自分が豊かさを受け取ることを許すということなんだなと感じた。
特に考えずに手に取った本が、一晩で人生をさらに豊かにすることができる。これって、すごいことじゃないだろうか。
有名なセラピストでよくテレビに出ている心屋仁之助さんという人がいる。
この間あまり元気が出ない時があって、たまたまスーパーにちょこっと置いてある書籍を何気なくのぞいたことがあった。その時に心屋さんが著者ということと、タイトルだけを見てあまり悩まずに「一生お金に困らない生き方」という本を買った。
サッと読み進めていったが、「あなたと親の関係についてのあなたの思い込みは、将来の人間関係に反映される」「豊かさを受け取ることを自分に許していないと、お金も上手に受け取れない」というようなことが書かれてあった。それもそうか、と妙に納得して、じゃあ自分が豊かになることを許すとはどういう風に行うのかとページをめくると、「お母さんはかわいそうではなかった」「お母さんは幸せだった」と理解することが重要らしい。これは声に出してみて少し涙が出てきたけれど、さほど問題ではなかった。実際母に聞いてみれば幸せらしいし、私も成長した今なら母が本当に自分の人生に責任を持つことに幸せを感じていることがわかる。
問題だったのは次のページだった。
「反抗期が上手にできなかったと思う人は、母親に対して(直接でなくてもいいので)『くそばばあ』と三回言ってみる」と書かれていた。
本心から思って言う必要があるものでもないし、別に私の母なら笑い飛ばすだろうという確信があったにもかかわらず、結局その言葉が言えずに母の部屋の前で一時間近くウロウロしていた。今考えるとかなり笑える光景だ。
心屋仁之助さんといえば、テレビで芸能人などを相手に「言えない言葉を言ってもらう」というセラピーで有名だが、実際に自分が「言えない言葉」を持っており、それを乗り越えるという経験をする日が来るとは思わなかった。
なぜ母親に対して冗談でも「くそばばあ」と言うことができなかったのか。
罪悪感の様なものがどこか心の底にくすぶっていたのだと思う。もっと「良い子」であれば母が苦労しなかったんじゃないかとか、幸せになったんじゃないかとか。母が本当に苦労していたのか幸せではなかったのか全く確認も取らず、子供の思い込みでそう信じていた。私が迷惑じゃないだろうか、いや、迷惑であるはずだ、だから申し訳ない、と勝手に考えて自分を痛めつけていたみたいだ。別にそんなことを考える親じゃ無いって、少しでも真実のみを見ようとすればわかるようなことなのになぁ。
結局は、私は母親に嫌われることを極度に恐れていたようで、「くそばばあ」なんて暴言は死んでも吐けないと思っていた。けれど、言えば何かが変わると信じて、数時間母の部屋の前でウロウロした挙句本人に言ってみた。
結論。
恐れていたようなことは一切なし。むしろウロウロしていた私を見て「なんかかわいかった」と言って笑っていた。
やってみてよかったと思う。というのも、母と自分の人生の線引きができた気がするからだ。今までは母親の価値観と自分の価値観がごちゃ混ぜになっていたけれど、「くそばばあ」と言ってみて相手をいったん「自分とは別の人」と認識することで、より「自分」という存在に集中できるようになった気がする。
もう罪悪感を抱かなくていいから、私は自分の豊かさと幸福を求めていいのだな、と。
あー、これが自分が豊かさを受け取ることを許すということなんだなと感じた。
特に考えずに手に取った本が、一晩で人生をさらに豊かにすることができる。これって、すごいことじゃないだろうか。