踊り手の僕が、こんなこと書いてよろしいのかどうがわかりませんが、このところ不意に踊りたくなる、身体を動かしたくなる時がある。
稽古はもちろん、本番でもしっかり動きますし、当然好きでやっている職業なので「踊る」ということは当たり前なのですが、20代30代の若い時のように四六時中、寝ても覚めても動きたい・踊りたいということはこのキャリアになると無くなってしまっている。
これは、「自分が動きたい・踊りたい」ということよりも「如何に、ご来場いただけるお客様に良い舞台を!」という責任感で仕事をしているという部分が大きく影響しているのかもしれない。
普段、自分の踊りを動画に撮っても「気になるところ・悪いところ」を徹底的に改善することに努めていて、それ以上のことで「踊る」や「練習する」ということがなくなってきています。
最近始めたトレーニングアプリのお陰であろう。
筋力がついてきて、普段の日常生活の中で急に「動きたくなる」瞬間がある。
例えばルンバと散歩している夕暮れの道で、急に背中を絞りブラッソを天高く上げたくなったりし始めた。
稽古や本番以外で身体を使わなくなったのは、精神的な問題ではなく、老化という年齢に勝てぬ体力の衰えで怠惰になっていたのかもしれない。
3カ月前から、僕の解剖学の先生でもあるカイロプラクティックの治療院に通い直している。
東京クルシージョの後に行ってその後那須に帰るのですが、月1のペースで行くことにしている。
人に観て(診て)もらえることはやはり大切である。
ほんのちょっとのことでも、それがあとで多大なことにつながり、新たに治療に通い始めてアドバイスいただくことを、クラスで生徒さんにも還元できるよう思考することもできる。
観て(診て)もらえること、そしてアドバイスや修正してもらえることは本当に大事だな、と思う。
何も身体のテクニックのことだけではない。
アーティストとして、ダンサーとしての大切な心構えや表現の意識もその中に含まれる。
庸子先生とは友達付き合い的にしておりますが、でもやはり僕にとっては大先生であるという敬意は常に持っている。
なので先生が「嫌いなこと」「嫌なこと」は他愛のない会話の中でも言わない、口に出さないように気をつけているが、先生は先生で僕に気を使っているところがあるので、僕の踊りに対して評価的な意見を言うことがない。
僕としては何を言われても構わないし、真摯に受け止める姿勢ではいるが、まあ世の中そんなに上手くいかないのでしょう。
だけどある時、そうあれは前回のBlue Noteの本番後に、「あなたは、○○○が足りないのよね」とポロッと言ってくれた!
とてもありがたかった!!
「これは一生の宝!」と大切に見続け、考えていきたいと思う。
「アート」とは「血」であると思っている。
そして「アート」が受け継がれていくというのは、ある種血縁以上の、別次元の絆で繋がっていくものだと思う。
その「血」を守り、そしてそれを育て引き継いでいくように伝えていくことが「教える」ということだと思う。
受け継ぐ側は、その師匠の過ごしてきた時間、経験、空気、感情等を純粋に受け止める感受性が必要である。
まあ、そんなに真面目に考えなくても、それを楽しく盃でお酒をいただくように頂戴できれば良いと思う。
「技術」は確かに必要ではあるが、「アート」は引き継がれて育っていくものだから、それを吸収できる「心」が大切であり、一度吸収した「アート」は誰にも盗まれないもので、そして減ることもないから皆で共有できるものなのです。
©近藤佳奈