「表」に「現」れると書いて【表現】。
しかしこの「表」に現れてくるものが恐ろしい。
踊りの動きも、音も絵も文章でも。
 
幸いなことに師には恵まれてきたので、沢山の良いものを学ぶことが出来てきましたし、現在もそれは続いている。
またとても厳しい方々でもあったので、表面的なことだけではなく、内側からも躾けていただいた。
舞台という神聖な空間で行われる舞踊の所作というものは、全て観る側の人のためへの礼儀作法のようなものの上に成り立っている。
なので【型】というものがあり、これをしっかりと身につけることがまずとても大変なことであり、そこに到達できてはじめて自分のスタイルを編み出し【型破り】となる。だが、その基礎が身体についていないのに好き勝手やることを【型無し】という。
 
故にこの世界はしっかりと師事して修行を積んで、常に見ていただき、直してもらわなければならない。
いや、「直し」ではなく「矯正」です。
この矯正は、身体だけではなく精神の部分も含みます。
強烈に苦しい稽古を突破できてこそ、自分の壁を打ち破ることが出来ます。
その壁を乗り越えないと本当の意味でスタート地点に立てないのです。
 
今はインターネットでパソや振りが簡単に取れる。
また便利なスマフォやタブレットでクラスを録画できる。
ですが師事をするというのは、師匠から目に見えないものを授かることだと思います。
その師が歩んできた道、そして師が呼吸してきた芸という空気、見てこられた風景、熱い想い、そして「魂」が弟子に伝えられていく。
これがないと芸というものは「命」を持たない。
 
これは発信側もそうだが、受信側もしっかりとキャッチできることが重要。
きちんとキャッチするためには自分を、真っ白なキャンバスにしておかないと出来ない。
何も疑わず100%受け入れること。
師が「白」と言ったら、どんなことがあってもそれは「白」である。
翌日、師が同じ事を今度は「黒」と言ったら「黒」なのである。
大切なことは白黒どっちかということではなく、その移り変わりへの経緯、師の考えを汲み取ることである。
 
これに気が付くのに私も時間を要し、かなり無駄な汗を流した。
 
 
今朝、ある師とお茶をした。
思っていたよりは元気であったが、具合は悪そうであった。
 
そしてもう今後、その師に教えていただくことは出来なくなってしまった。
また一人、自分を見てくれる人がいなくなってしまう。
 
1時間ちょっとお話をして一度家に帰る。
 
目を閉じて、今まで学んできた師匠方の姿を思い出す。
立姿、見本の動き、仰っていた言葉、声が今でも自分の中に生きている。
果たして今自分は、その師匠方のように教わる側の方に伝えなくてはいけないことを伝えられているのか。
それは私がいなくなる時にわかることなのか。
 
そしてもう一度、先ほど別れた師を思い出す。
 
週に一度の個人レッスンを見て頂くようになったのは、彼是4年前ぐらいからだったろうか。
沢山のことを教えていただき、いえ、矯正してくださったお陰で、ようやっとダンサーとしてスタート地点に立てるレベルになった。
もちろん他の先生でも稽古は続けるが、これからはもっと自分に厳しく、その学んできたことを逃さないように大切にしないといけない。
 
その師のお陰でスタート地点に立てたのですから、これからは自分で帆を張って出航させないといけない。
例えもの凄い荒波がやってきても、乗り切れるだけのモノを授けてくれているはずだから。
 
これからなのだ。
 
一粒だけ涙を流してみた。