前に一度物件探しの時に相談に行ったことあり、スタジオ近辺でもよく会うので挨拶は交わすのですが、その不動産屋さんが50メートルほど前を歩いていた。

私は本番に向かう途中で新宿通りを四ツ谷駅の方へ歩いておりましたが、不動産屋さんはふとあるお店の前で立ち止まり熱心に中を覗き込みはじめる。

集中されているご様子だったので私は声をかけずに通り過ぎたのですが、どうやらそのお店は閉店されたようでした。

「さすがお仕事柄、空き物件は目ざとく見つけられるのですな!!」とここで終わっても良いのですが、私のブログはそうは参りません。


 私は新宿通りを歩きながら目の前を歩く方々の骨盤や仙骨のチェック、足の重心の位置、下肢の骨格を観察しながら歩いていた。
当然のことながら、その方がお店を覗き込んでいなければその閉店ことなど気づきもしなかった。


 以前「聴く」ということで書いたかと思いますが、我々の耳は無意識に聴きたい音を拾い出すように聴いている。

どんなに混雑したレストランで周りの沢山の方が会話していても、目の前の友人の声だけを聴きとり会話をすることが可能なように、視覚もそうなのであろう。

 当たり前じゃんと思うかもしれませんが、以前とある監督がドラマの臨場感を出すためにレストランの会話のシーンをアフレコにせず周囲の会話もそのまま一緒に録音して放映したそうですが、聞き取りづらいとクレームが多く入り打ち切りになったそうです。

そのことを考えても人間の体の完成度というものは素晴らしく、今回のテーマに置きたい視覚についても同じことが言えると思います。

 私は目の前を歩く人の仙骨を見て観察してましたが、他の人たちで前に歩く人の仙骨など見ている者はまずいないと思います。
だからその人たちにとって仙骨という骨は存在しないも同然。

同じように不動産屋さんがいなければ私はその店の閉店に気付かずに通り過ぎていたのですから、その店の閉店という事実は私にとって無かったに等しい。

 車に興味がある人は歩いていても自然と車へ目が行き、興味のない人にとっては見向きもしないので車というものは存在していない。

これは何もこじ付けなことを言っているわけではなく、ここでタイトルにもなっている言葉が出てきます。
これは【量子力学】という立派な科学のジャンルの理論です。

観察者がいなければ物質はあくまで可能性として、しかも多重に存在している。

そこにあると思ってみればあるし、見なければそこにはない。

多次元に存在している可能性もある。

しかも観察者がいなければ物質も存在しない。



私の大好きな京鹿子娘道成寺の花子と坊主のやりとりでも出てきます。

https://youtu.be/gTzY6Og6oP8?t=14m45s

「色即是空 空即是色」般若心経ですね。


 話しをちょいと戻しますが、例えばとして、もし仙骨という骨はないと言うことが通説になっていたら、私がこのように「仙骨とは」とブログを書けば、「そんな骨などありはしない!」と抗議が上がりその人は人の臀部を観ながらも「あれは腸骨だ」と言い張り争いにもなるかもしれない。

 もしかしたら我々は、本当は存在していないものを「見ている」というつもりになっているかもしれませし、本当は「自分で投影して創り出している」と言えるのかもしれません。

 他の方が見ているものはその人にとって見えているものなので否定することもないと思いますし、同様に自分の見ているものは自分にとって正しいのでもあります。

ですから嫌なことを目にして腹を立てるというのも、本当は自分で嫌ことを作り映し出しているのかもしれませんね。。。