今日も暑かった。

昼間、遅れていた家賃を払いに大家の家に行く。

大家の家は私の住むアパートから歩いて数分の場所にある。

こうやって毎回、毎回直接手渡しで家賃を払いに行くのが面倒くさくもある。

銀行振込か引き落としかどちらかにできないものだろうか。

大家は白髪もうすくなったおじいさんなので、そういう方法がわからないのだろうか。

そんなことをブツブツ考えながらセミの鳴き声の中を歩いていると、大家の家の門までたどりついた。


私は門のインターホンを押す。

何の応答もない。

もう一度インターホンを押す。

しばらく待つ。

右手に持った家賃の入った茶封筒を眺める。

握っていた部分が汗で少し湿っているようだ。

セミがやかましい。

しばらく待ってみたが、インターホンからは何の応答もなかった。

先週も暑い中、今日と同じように家賃を払いに来たが、大家は不在だった。

私も忙しいので、次はいつ来れるかわからない。

そのうち月末になって、また来たらまた不在で、来月も不在で、その次の月も不在となると、私は払う意志があるのに家賃を何ヶ月も滞納したことになり、裁判所に訴えられて、いわれのない罪で投獄されるかもしれない。いや、そんなことは絶対許されない。私は法廷で断固戦う。自らの無実を証明するために。たとえ、犯罪者と後ろ指をさされようとも、いつか無実が証明されるその時まで。なぜなら私は今日こうして額に汗をかきながらアパートに住む対価としての家賃を払いに来てるのだから。正義は私の側にあり、この門の向こうに住む大家には正義は・・・

「どうぞ、お入り下さい」

不意にインターホンから大家の声が聞こえてきたのでびっくりするが、これで法廷まで行かなくて良いのかと思うと内心ほっとする。


門から玄関のドアまでの敷石の短い道を歩く。

その短い道の横手には大きな庭がある。

庭は緑の芝生が敷きつめられ、名前のわからないカラフルな花や木が植えられており、そうかと思うと石灯籠があったり、奥にはた小さな池も見える。

家も大きく、瓦葺きの屋根には城にあるような鯱が飾られている。

いかにも金持ちの佇まい。


数ヶ月前に引越しの挨拶で訪問した際には玄関で一時間近くもこの土地の話を聞かされた。

大家はこの土地に古くから住む地主らしく、ここ30年ほどの間に町がどんなに変わったかということを延々と私に話すのだが、私は話の切れ目をみつけてさっさと退散することだけを考えていた。

次に、最初の家賃を払いに来た時は、ご苦労さまの一言だけで終わり、その翌月に来た時は家賃を渡したあと、住み心地はどうですか?ときかれ、夜は静かだし大変住みやすいです、と私が答えると、上機嫌になり、そうでしょう、この町は昔・・・とまた昔の話が始まったが、私の携帯電話が鳴ったので、私はその隙に退散した。そのまた翌月は、ご苦労さまの一言で終わり。今回はどうだろうか。


玄関の前でまたインターホンを鳴らす。

待ってる間に、額の汗をTシャツの袖で拭う。

Tシャツも汗で体に張り付いている。

何て暑い日なんだろう。


インターホンから、どうぞ入って下さい、と声があり、ドアを開ける。

大家は白いステテコ姿で玄関に立っていた。

私は家賃の支払いが遅れたことを丁寧に侘び、大家に家賃の入った茶封筒を差し出す。

大家はご苦労さま、とだけ言って受け取る。

私は失礼します、と言って踵を返してドアノブに手をかける。

「わざわざ暑い中来てくれたのに何か飲み物でも飲んでいって下さい」

大家はそう言うと、私に手招きして、玄関のすぐ横にあるドアを開ける。

「いえ、すぐ帰りますので、お気持ちだけで」

「さあ、どうぞ、どうぞ、上がってください」

「いや、本当にお気持ちだけでありがとうございます」

「我が家の自慢の井戸水があるのです。あなたにも一度飲んでもらいたいと考えていました。さ、どうぞ、遠慮なさらずに」

正直なところ、私は喉が渇いていた。私は大家の好意に甘え玄関を上がる。

そこから見える廊下には左右の壁にいくつものドアが続いていた。外から見る以上に大きな家のようだ。

大家は玄関のすぐ横の部屋のドアを開けて、こちらですと言って中に入る。私も続いて入る。

そこは部屋ではなく、地下に続く階段があった。

階段を下りながら大家が言う。

祖父の代からある我が家の自慢の井戸水があるのです。昔は近所でも評判で、この井戸水で米を炊くと美味しくなるといって近所の人がわざわざ水をもらいに来たほどです。中には肌にぬると美容効果もあるという人もいました。井戸水を飲んだことはありますか?

「いえ、ありません」

私は階段を下りながら答える。

「昔は井戸水も飲めたのです。最近は土壌が変わって井戸水も飲めなくなりましたけどね」

「なるほど、大家さんの家の井戸水は今でも飲めるんですか?」

「今は飲めなくなりました」

大家はそう言うと、階段を下りた先にあるドアをまた開けた。

今度は薄暗い地下道が続いている。

「さあ、どうぞこちらです」

大家は地下道を歩き始める。私はまたあとに続く。カビくさい匂いがする。

薄暗いので最初わからなかったが、地面は土だった。私は靴下だったので玄関から靴を持って来るべきだったと後悔した。いや、それとも玄関で帰るべきだったのだろうか?

大家はステテコ姿の裸足だったが、土の地面を気にせず歩き続けている。


「その井戸水は今はもう飲めないのですか?」

私はさっきの話の続きを始める。

「はい、そうなんです。この町の人口も増え、近くには工場もあります。土壌が変わったのです。町が変わるのと同じように」

「はあ、では大家さんのすすめる自慢の井戸水というのはどこに・・」

「気をつけて、このあたりはマムシがいます。噛まれないように足元見ながら歩いて下さい」

大家が突然大きな声をだしたので、私は驚きとともに急に怖くなり、やはり玄関で帰るべきだったと後悔する。

大家が不意に立ち止まったので、私は前を歩く大家とぶつかりそうになる。

薄暗いので視界がはっきりしない。マムシがでるから気をつけてと言われてもこの薄暗さでは気をつけようがない。そもそもこんな場所にマムシは生息するのだろうか?

立ち止まった大家の方向から光が射してきた。どうやらまた違うドアを開けるために立ち止まったようだ。

今度は煌々と明かりのついた地下道が続いている。しかもリノリウムの綺麗な床だ。まるで地下鉄の駅の通路のような地下道だった。冷房が効いているのだろうか、空気がひんやりしている。

「ここは何の地下道なんですか?」

「昔、地下鉄を通す計画があったのです。国の命令で町民がかり出されて工事を始めたものの、政局の混乱で計画は棚上げされ、この地下道だけが残りました」

「工事を町の人たちがやるのですか?ゼネコンとかの建築業者ではなくて?」

「そうですよ、国の命令ですからね。田植えの大事な時期に男手が足りなくて、この町の人間は皆、ひどい思いをしました」

大家は前方を見ながら答える。

よく見ると大家は私が渡した茶封筒を片手に持ったままだった。

その地下道は広かったので、私は大家の横を歩いていた。

本当に地下鉄の地下道を歩いているような気分になる。

地下道が二つに分かれ、大家は迷わず右の地下道を進む。

しばらく進むと、昇りのエスカレーターがあった。

最初止まってると思ったエスカレーターは私と大家が近づくとセンサーの反応で動きだした。私は大家に続いてエスカレーターに乗る。見上げるとエスカレーターの一番上まで100Mくらいある。

「長いエスカレーターですね、このエスカレーターは誰が管理してるのですか?」

「これは町内会の副会長です」

「町内会で?」

「はい」

「町内会でこんな長いエスカレーターや地下道を管理できるのですか?電気代だって相当の・・」

「気をつけて、スピードを上げます。しっかりつかまってて」

大家がまた大きな声で注意したので、またびっくりする。

大家はいつのまにか片手にリモコンのようなものを持っていて、ボタンを幾つか押し始めると、エスカレーターのスピードがぐんと速くなった。私は手すりをしっかり握る。大家はまたボタンを押す。スピードがどんどん上がる。こんな速いエスカレーターに乗るのは初めてだ。あっという間に頂上だ。しかしスピードが落ちない。それどころかまだ速くなってる。

「大家さん、危ないです。スピードを落とさないと」

私は横でリモコンを操作する大家に言う。

「止めるボタンがわからないのです」

大家はリモコンのボタンをむちゃくちゃに押し始めた。

このままではエスカレーターが終わると放り出されてしまう、と思った瞬間、私と大家の体は空中にあった。その時、私の脳裏にあったのは、玄関で帰るべきだったという後悔だった。


私と大家の体は柔らかいマットの上にあった。

エスカレーターを昇りきったところで放り出されたらしい。

「こんなこともあろうかと、マットを敷いて置いたのです。さあ、行きましょう」

大家は何事もなかったように立ち上がり、また歩き始める。


今度はまた明かりのない薄暗い地下道だった。地面はまた土。

「このあたりはマムシはいませんが、かわりに小石があるのでつまずいたりしないように」

足元が暗くてほとんど見えない。

靴下しかはいてないので、小石が足の裏にくい込むと痛くて仕方がない。

しばらく歩いて、大家がまた扉を開けると、さっきと同じ明かりのついた地下道。また二人並んで歩く。

「大家さん、もうだいぶ進んだと思うのですが、私もこのあと用事がありますので時間的にそろそろ・・」

「もうすぐです、もうすぐ美味しい井戸水が飲めますよ」

大家はそう言って、不敵に笑うのだが、私の喉の渇きは益々増しているように思えた。

その時、地下道の先から人影が近づいてくるのが見えた。レトロな三つ揃いスーツを着た会社員風の若い男だった。あたりをキョロキョロしながらこちらに近づいてくる。いかにも道に迷った様子で、私と大家とすれ違うと立ち止まってこちらを不思議そうに見ていた。大家は構わず歩き続けている。

「あの人は知り合いですか?こちらをずっと見てますけど」

「30年前に亡くなった私の父です」

「え?父親?でも年齢が、いや亡くなっているってどういう?」

「このあたりまで来ると、時空がねじまがっているのです。若かりし頃の父が時空のねじれた割れ目にはまり込み、この地下道に迷い込んだのでしょう」

「そんなバカな?」

「そういえば、今思い出しました。私が子供の頃、父がひどく酔って夜中に帰ってきた時がありました。私は寝ていたのですが、夜中に叩き起こされ、その夜、父が体験した不思議な出来事を聞かされました。父は会社の仲間と酒を飲み、酔って帰る途中、落とし穴のような空間に落ち、気がつくとよくわからない建物の中で、そこは人が誰もいなくて、廊下が延々と続いていたと。さ迷っていると男の二人組とすれ違った。老人と中年男の二人組で、中年のほうは見覚えがないが、老人はどこかで会った気がしてならない。だがどこで会ったか全然思いだせない、と」
「はあ」

「その老人は私だったんですね。息子が自分より年老いた姿を父は目の当たりにしたということです。」

喉の渇きのせいだろうか。私もなんだかわからなくなってきた。

私が振り返ると、大家の父親はもういなかった。

またしばらく歩く。

もうどれくらい歩いただろうか。


「ここは地上でいうとどのあたりですか?」

「地上?わかりません。考えたこともないです。」
大家は私の質問を意に介さず、歩き続ける。

地下道の行き止まりにまた扉があった。

大家は扉を開ける。

今度は何があるのだろうか?

扉を開けると無人の部屋があった。

事務机が並んでいて、事務室として使われていた形跡がある。

大家は部屋を横切り、また別の扉を開ける。

今度は二段ベッドが並ぶ無人の部屋。

仮眠室だろうか?

大家はまた部屋を横切り、別の扉を開ける。

今度は階段。

階段を昇る。

昇りきると、下りの階段。

階段を下る。

汗が吹き出る。飲み物を飲むために余計に水分を放出している気がする。

しかし、老人であるはずの大家の歩調は変わらない。無表情で歩き続けている。

「さあ、もうすぐです。美味しい井戸水が飲めますよ」

大家は疲れた私を気遣ってか、私の肩をポンポンと叩いた。

階段を下りた場所でまた扉を開ける。

今度は何もない部屋が現れた。いや、部屋のすみに記載用の台がある。

大家はその台まで進むと、そこにあった紙を一枚私に渡した。

「あなたの名前と住所を指定の欄に記入して下さい」

「何の書類ですか?」

「これから通る場所に必要なものです。そんな大げさなものではありません。形式的なものです。心配ならデタラメの名前と住所で構いません」

私はデタラメの名前と住所を書き込む。

「最後に、同意する、にマルをしてください」

「何の説明の同意ですか?」

「説明してる時間がないので、マルをしてもらえばいいです」

私は同意するにマルをする。

大家はその紙を持つと、記載用の台を動かし始めた。

すると台は左にずれ、台のあった場所に今度は小さな扉が現れた。

「何の隠し扉なんですか?」

私が驚いて尋ねる。

「さあ、もうすぐです」

大家はそう言うと、小さな扉を開け、かがんだ姿勢で中に入る。

私も身をかがみ、中に入る。

そこにはエレベーターがあった。

さあ、乗りましょうと言って大家はエレベーターに乗り込む。私もあとに続く。

大家はさっき私が記入した紙を両手でくちゃくちゃに丸め、紙クズのようにエレベーターの外に放り投げた。

私は何をしているのかわからず、ただ黙って見ていた。

大家はエレベーターの外に向かって、大きな声でお願いしまーすと言うと、エレベーターが閉まり、上がり始めた。

「今誰に言ったんですか?」

「町内会の副会長です」

エレベーターに窓がないので、外の様子がわからない。何階かを知らせるランプの表示もなければ、行先階を押すボタンも何もない。

時々、外からゴボゴボという水の中を進んでいるような音が聞こえる。

「これで、最後はどこに行くのですか?」

「我が家の井戸水が飲めた時代に行きます」

「は?」

「気をつけて、エレベーターが着陸する時、大きな衝撃があります」

大家がまた大きな声を出したので、びっくりする。

「いや、そんなこといわれてもつかまるものが何も・・」

私は壁をまさぐるが、ただ壁があるだけだ。

大家は床に亀のような体勢で体を丸くしている。

私も真似しようと床にヒザを着いた瞬間、エレベーターのドアが開いた。

太陽の光が射している。

外はどこかの家の庭のようだ。

「着いた・・」

大家はそう言って立ち上がり、外に飛び出す。

「ああ、懐かしい。見てください、私が子供の頃の我が家です。」

大家ははしゃいだ様子で私に言う。

私も外に出る。

藁葺きの大きな家がある。庭は農機具が置いてあるだけで何の飾りもない。

しかし本当にここは何十年前の世界なのか?

「井戸はこちらです。さあ、喉が渇いたでしょう」

大家は家の裏手を指差し、私を案内しようとする。

「あれ、大家さん、私が渡した家賃はどこかに預けたのですか?最初、手に持ってましたよね?」

私が不審に思いそう言うと、大家は立ち止まり自分の両手をまじまじと見る。

「落としたんだ・・来る途中にどこかで落としたんだ」

「本当ですか?」

「今すぐ戻りましょう、あなたがせっかく払ってくれた家賃です。無くすわけにはいかない。探さないと」

「あれ?井戸水は?」

大家はさっきのエレベーターに乗り込み、私に手招きしている。

私も仕方なくエレベーターに乗り込む。

坊主頭の小さな男の子が家の中から不思議そうにこちらを見ていた。

お願いしまーす、と大家が外に向かって言うと、エレベーターが閉まる。

今のは誰に言ったのだろうか?

またエレベーターが動き始める。

あの坊主頭の男の子は、大家だろうか?

さっきと同じ経路を引き返す。

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結局どこにもなかった。

玄関までへとへとになって戻って来て、大家が突然何かを思い出したように、庭の裏手に走り出す。

私はこの隙に帰ろうと思った。私は家賃を渡したのだから、なくしたのは大家の責任であるはず。

私がこれ以上付き合う必要はない。

すると、庭の裏手から大きな声で大家が私を呼ぶ声がする。

私は仕方なく、裏手に行くと、蔵の中で大家が必死に何かを探している。

蔵の中は雑然として、ホコリが飛び交っている。

「何を探しているのですか?あのう、私は家賃をちゃんと渡したわけですから、あとは大家さんの・・・」

と、私が言いかけた時

「あった、ありました」

大家が興奮した様子で色あせた茶封筒を片手に私に近づいて来てこう言う

「地下道ですれ違った父が拾ってくれたのです。父があの時家に帰ってきて、地下道の中で珍しい外国のお金を拾ったと私にこれをくれたのです。しかし福澤諭吉先生のお金など当時の日本にはないので、私はそのお金を自分の宝箱にしまっておき、それきりその存在を忘れていました。父が拾ってくれたのです。」

私は封筒の表に書かれた文字を見て、ドキリとする。

7月分家賃と書かれた文字は私の筆跡だった。

中身も見る。家賃がそのまま入っていた。しかも何十年の時を経た分、色あせている。


「喉が渇いたでしょう?何か飲み物を持ってきます。」

大家はそう言って、家の中に入っていった。

私は疲れて地面に座り込んだ。

大家がなみなみと水の入った大きなコップを持ってきた。

「井戸水ではなく、ミネラルウオーターですが、どうぞ」

私は受け取ると、一気に飲み干した。

「水って美味しいですね。今度は井戸水をお願いします」

私が冗談交じりにそう言うと、大家は申し訳ないという顔をした。

「あのエレベーターは30年に一度しか動かせません。町内会の予算ではそれが限界なんです。」

大家は家賃の入った茶封筒をしみじみと見ながら言う。

「30年前にあのエレベーターを動かした時はこのあたりもまだ田んぼが多くてね・・団地ができてからかな、スーパーも進出してきて・・」

「あの、私はそろそろ失礼します。おいしい水をありがとうございました」

私は話を遮るようにそう言って、脇目もふらずに大家の家をあとにした。


暑い日だった。



(おわり)