日本100名城NO.30高遠城の次はNO.29松本城で2つ目のスタンプGET(2025年3月5日(土))






松本城(まつもとじょう)は、長野県松本市(旧・信濃国筑摩郡筑摩野松本)にある日本の城。松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。
天守は安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された現存天守の一つとして国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城、犬山城、彦根城、松江城)。

戦国時代の永正年間(1504-1520年)に、信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。
天文年間には甲斐国の武田氏による信濃侵攻が開始され、1550年8月27日(天文19年7月15日)には林城・深志城などが落城し、信濃守護・小笠原長時は追放された(『高白斎記』)。武田氏は林城を破却して深志城代として馬場信春を配置し、松本盆地を支配下に置いた。その後は信濃小県郡の村上義清、越後国の長尾景虎(上杉謙信)と抗争し、北信濃に至る信濃一帯を領国化した。
1582年(天正10年)、甲州征伐に伴う武田氏滅亡により城代馬場昌房から織田長益に明け渡された後、織田信長によって木曾義昌に安堵された。本能寺の変後の武田遺領を巡る天正壬午の乱において、同年6月には越後の上杉景勝に擁立され、小笠原旧臣の助力を得た小笠原洞雪斎が奪還。さらに徳川家康の麾下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城と改名した。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ、当時の松本城主小笠原秀政も下総国古河へと移った。代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行う。石川数正は徳川家を出奔して秀吉の下へ走った経緯があり、天守の築城は関東を領した家康に対する牽制・防衛のためだといわれている。
その後、家康が江戸幕府を創始。江戸時代初期には大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が再び入城。大坂の陣以後は松平康長や水野家などの松本藩の藩庁として機能した。水野家の後は松平康長に始まる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。
1686年 貞享騒動(じょうきょうそうどう)が起きる。農不作のうえ過酷な年貢に多くの農民が苦しみ、身を挺して多田加助とその同志たちが郡奉行に訴え出た。やがて松本城を農民が万余りに取り囲む騒動に発展した。沈静化のために訴えを家老達が聞き入れたが、沈静化した後、家老が聞き入れた覚え書きを取り上げられ、加助とその同志の子弟も含め28名、翌年年明けに処刑されてしまう。