各地に残る九七式中戦車を見てみよう!!の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

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九七式中戦車は大東亜戦争全期間を通して
 
使用された日本陸軍の中戦車です。
 
 
諸外国の戦車でガソリンエンジンが
 
主流であったのに対し、
 
本車は空冷ディーゼルエンジンを
 
装備していたのが大きな特徴。
 
 
本車の主砲は、榴弾を発射する
 
(敵機銃座や掩兵壕の破壊に適する)
 
短砲身の九七式五十七粍戦車砲
 
(九七式57mm戦車砲)を装備しています。
 
 
 
 
 
 
 
これは本車が歩兵支援を
 
主目的として開発された為です。
 
また、砲塔後部と車体前面に機関銃
 
(九七式車載重機関銃)を
 
それぞれ装備しています。
 
装甲は最大25mmであり、
 
敵陣地からの銃弾や砲弾の
 
弾片をに対して防御する為ですね。
 
そもそも、歩兵支援を主目的にしていた
 
本車の火力・防御力は、
 
大戦時の対戦車戦闘に
 
於いては不足していることが
 
ノモンハンの時点で明らかでした。
 
 
 
 
餓島マタニカウ川の河口で破壊された九七式中戦車
 
遊就館(靖国神社)
 
 
 
この戦車は満洲からサイパンに移駐。
 
昭和19年、上陸する数倍の米軍を迎え撃ち
 
玉砕した戦車第9聯隊の1輌。

 同島で発掘されたチハ車。
 
昭和50年に帰国し奉納されたもの。
 
チハ車:3番目に開発された(イ・ロ・ハ順)
 
中戦車のチを合わせた計画名称。
 
 
 
 
 
 
若獅子神社(静岡県富士宮市)
 
 
遊就館同様、サイパンの
 
海岸線に掘った塹壕で
 
運用されていたと思われるのを
 
戦後、米軍が地中に埋めたもので、
 
あまり劣化しない状況で
 
30年間保存されていました。
 
港の回収で掘り出された時に日本に
 
引き揚げる手続きをとったそうです。
 
 
陸軍少年戦車兵学校があったこの地に、
 
戦没同窓生の慰霊・顕彰のため
 
若獅子の塔を建立したのを起源とし、
 
昭和59年10月に神社を創建。
 
白く囲んだところは弾痕。
 
 
 
 
 
 
神奈川県三浦海岸
 
終戦時神奈川県に駐屯していたのは、
 
横浜市戸塚の戦車第2聯隊と、
 
横須賀の戦車第41聯隊。
 
本土決戦用の海岸防備
 
としてその中の1輌を
 
ここに配備したのかもしれません。
 
戦後埋められたものが、
 
長年の風雨で姿を現し
 
腐食したのでしょうか。
 
この車両は現在那須戦争博物館
 
に展示してあります。
 
 
 
 
 
 
 
那須戦争博物館(栃木)
 
上記のものを掘り出し、展示したもの。
 
説明文にはサイパンから
 
帰国したとあるが・・・。
 
 
 
 
 
 
 
サイパンは、
 
昭和19年6月11日から
 
米軍による空襲が始まり、
 
13日からは艦砲射撃が開始されました。
 
15日には7万人余の米軍が上陸を開始。
 
迎え撃つ日本軍は約4万人。
 
同島は、米軍にとっては日本本土を
 
爆撃するための重要基地として、
 
一方日本軍にとっては“絶対国防圏”の要であり、
 
双方にとって必要不可欠な拠点であるといえます。
 
ゆえにサイパンは、
 
両軍による壮絶な戦闘が繰り広げられました。
 
以下は陸軍戦車第九連隊所属の車両であります。
 
 
 
 
 
 
オレアイ海岸
 
チャラカノア・オレアイ海岸に
 
上陸した敵を迎撃すべく最初の反撃を行った、
 
吉村中隊長(大尉)が指揮する
 
第四中隊の中の1輌と思われます。
 
 
ただ、第1撃は九五式軽戦車を
 
主とする攻撃だったので、
 
この車輌がその中に含まれていたのか、
 
13時頃から始まった第四中隊の3輌、
 
あるいは同日の夜襲に参加さる車輌かは不明。
 
 
 
 
 
 
サイパン国際空港北側(1)
 
 
6月17日の総反撃に戦車第九連隊としては
 
残る第三、第五中隊を投入することになります。
 

この攻撃に際し、
 
戦車に歩兵を同乗させ突入すると言う
 
前例の無い攻撃案が採用されたのですが、
 
当初の攻撃開始時刻17時の決行が
 
歩兵隊の集合の遅れによって8時間も遅れ、
 
翌日になってしまい敵に
 
迎撃準備を十分与えてしまった。
 
 
下2輌はその時の第三、
 
第五中隊傘下の車輌だそうですが、
 
残存する第四中隊一部は、
 
オレアイ無線局付近まで進出したので、
 
先の初旬攻撃の際、
 
かろうじて生き残った
 
第四中隊所属とも考えられますね。
 
 
 
 
サイパン国際空港北側(2)
 
ススペ湖手前で停車した戦車九連隊
第四中隊長吉村大尉のチハ改
 
 
 
RAAC陸軍戦車博物館
 
(オーストラリア・メルボルン)
 
 
ニューブリテン島ラバウル南方に
 
展開した戦車第八連隊の一部を、
 
オーストラリア軍が戦後持ち帰った
 
九七式中戦車改(新砲塔搭載車)。
 
 
 
 
 
 
占守島
 
 
占守島の戦いは、
 
ポツダム宣言受諾により停戦した後の
 
8月18日未明にソ連軍が空爆・艦砲の後
 
上陸して来たので、守備隊は自衛戦闘を開始。
 
 
 
同島配備の戦車第11連隊が奮闘
 
炎上する戦車第九連隊第四中隊所属車輌
 
 硫黄島・戦車第26連隊の新砲塔チハ
 
元山飛行場攻防戦に投入された戦車第26連隊車両
二ッ根浜集積場付近まで進出した模様
 
 
 
各地の九五式軽戦車同様
 
その大半が放置状態にあるので、
 
防腐処理を施し
 
後世に残してほしいものです。
 
 
 
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