九五式軽戦車群が雨ざらしのポナペ島!!はよ何とかせんとその内朽ちてまうで~!!の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

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当面の間冒頭にこのお知らせを載せることにしました。

 
 
 
ポナペ島へは直行便がないのでまずグアムへ飛び
 
そこでチョーク(トラック)経由で行くことが出来ます。
 
 
 
 
 
 
ポナペ島(現ポンペイ島)は
 
ミクロネシア連邦のポンペイ州に属しています。
 
 
 
 
 
 
欧州人がポナペ島を発見したのが1528年頃と言われ
 
大航海時代を牽引したスペインによってでした。
 
 
スペイン王の命によりマゼランが西回り航路開拓に
 
出たのが1519年8月。
 
マゼランはフィリピンで戦死しますが
 
最後まで健在だったビクトリア号が帰国した時には
 
3年の歳月が経過していました。
 
 
 
 
 
 
彼らの功績は偉大で、
 
開拓された西回り航路をもとに
 
ポナペ島にやって来たものと思われます。
 
 
その頃日本はと言うと、
 
室町時代後期にあたり
 
1467-1477の応仁の乱後
 
力をつけ台頭したきた各地の守護・地頭が
 
覇権争いをし出した時代でもあります。
 
織田信長が産まれたのが1534年頃で
 
武田信玄が父の武田信虎を追放したのが1541年。
 
種子島に漂着したポルトガル人により
 
火縄銃が伝えられたのが1543年の出来事です。
 
 
 
 
 
 
第一次世界大戦終了後の1922年、
 
それまで独逸の統治下にあった
 
現在の北マリアナ諸島・パラオ・マーシャル諸島・
 
ミクロネシア連邦に相当する南洋諸島の
 
委任統治を国際連盟から認められました。
 
 
 
1922年に南洋庁支庁が同島に置かれたのを受け
 
それ以降多くの日本人が移民してきます。
 
軍も1940年から駐留を開始し、最大13000名が
 
駐屯していました。
 
カロリン諸島のトラックは南洋における
 
海軍の重大基地になってるので
 
その東海域を防衛するためにも
 
ポナペ島は重要な意味を持っていました。
 
 
ソロモン海域で反攻を開始した敵は
 
1943年11月21日に
 
マキン・タラワにも上陸してきます。
 
 
 
 
 
 
1943年12月5日、敵機動部隊は
 
マーシャル諸島日本軍基地に攻撃を行い
 
1944年1月30日にはクェゼリンに上陸。
 
 
 
2月2日、ナウル島に上陸開始
 
 
 
マーシャル諸島を手に入れた敵は
 
今度はポナペ・トラックを
 
狙ってると思われましたが
 
2月15日にポナペ島に対し大規模空襲を実施。
 
17日にはトラック島空襲を行い、
 
 
 
 
 
 
守備力の高いポナペと
 
クェゼリンを手に入れたことによって
 
戦略的価値が喪失したトラックへの
 
上陸は見送られ、空襲のみで通過していきます。
 
 
戦略的価値を放棄された同海域では
 
他地域に比べれば沈没船の数もかなり少ないです。
 
 
 
 
 
 
このようにポナペ島では
 
敵が上がって来なかったこともあり
 
大規模戦闘もなく終戦を迎えます。
 
 
同島には戦車第ニ連隊戦車中隊の
 
九五式軽戦車9両が配備されていました。
 
 
 
 
 
 
これらの戦車は同島各地に配備されたまま
 
長年ジャングルに埋もれていましたが、
 
地元の企業「アダムス ブラザース コーポレーション」が
 
一か所に集め展示したそうです。
 
しかし長年風雨にさらされ劣化が進んでいます。
 
 
 
 
 
 
劣化で思い出されるのは
 
南鳥島の九五式軽戦車。
 
比較的良好な形で残されていたものの
 
近年ついに腐食のため
 
崩れ落ちてしまいました。
 
 
 
 
 
 
ペリリュー島では
 
第14師団戦車隊の1輌が残されていますが
 
圧倒的有利な敵に対し
 
勇猛果敢に突進し、飛行場付近で破壊され
 
その後撮影された同一車輌と思われます。
 
 
 
 
 
 
サイパン島のラスト・コマンドポストには
 
横須賀第一特別陸戦隊所属の車輌と思われる
 
残骸が展示してあります。
 
 
 
 
 
 
私がサイパンへ遺骨収集に赴いた
 
昭和58年頃にはまだしっかりしていましたが
 
最近では砲塔部分が崩れかけています。
 
 
 
 
 
 
こちらはパラオ・バベルダオブ島の
 
完全に朽ちた九五式軽戦車。
 
 
 
 
 
 
車体が見えないのは
 
塹壕内に配置し、砲台として活用したのでしょう。
 
 
 
サイパン島の戦車九連隊のチハ
このように車体を隠したのでしょうか
 
硫黄島の戦車二十六連隊のチハ改
 
 
 
ポナペ島コロニア郵便局横に薄っすらと
 
塗装が残ってる車両がありますが
 
なんでも一度日本に持ち帰り
 
防腐処理と若干の塗装を施して
 
再びポナペに戻した車輌だそうです。
 
しかし放置されたままで
 
塗装もあっという間に剥げたそうです。
 
 
 
 
 
 
同島配属の歩兵第107連隊隷下の
 
戦車中隊には「試製水陸両用自動貨車」
 
なるものも配備されていました。
 
 
 
 
 
 
これも完全に朽ちていますね。
 
餓島への増援物資は敵機の目をかいくぐり
 
短時間で揚陸していましたが、
 
内陸部への輸送手段がなく
 
敵哨戒機によって発見され
 
空爆や機銃掃射によって
 
多くが海岸部で破壊されました。
 
これを受け、揚陸と同時に奥地への
 
運搬が可能な車両の開発に迫られます。
 
その水陸両用車両の中に
 
「試製水陸両用自動貨車」がありました。
 
戦車に比べ装甲が薄いので劣化速度は速いですね。
 
 
 
コロニア市街地の西には
 
ソケースマウンテンと言う岩山がそびえており
 
山頂付近には四〇口径八九式十二糎七高角砲
 
があります。
 
 
 
 
 
 
一部の駆逐艦を除き巡洋艦以上のクラスに
 
多く搭載されました。
 
 
 
空母龍驤に搭載された同砲
 
 
 
カタログデータでは毎分14発とありますが
 
実際は7、8発撃つのがやっとだそうです。
 
大和にも多く搭載されましたが
 
砲自体の重量が重く
 
高速化した敵機に旋回速度がついて行けず
 
九八式十糎高角砲への換装の要望が出されたほど。
 
 
 
しかしポナペでは
 
敵機による空襲はさほど多くなかったけど
 
たまに飛来した時にはこの砲が有効打を
 
放ったそうです。
 
 
このように自然にさらされた各兵器は
 
いつの日か崩れ去ってしまいます。
 
 
 
 
 
 
アダムス ブラザース コーポレーション
 
の元へは世界各国から戦車の売却を
 
希望するバイヤーが訪れていますが
 
すべて断ってるそうです。
 
しかし戦車は放置されたまま
 
なんの防腐処理も施していません。
 
 
 
この地において『遊就館』のような
 
建物を建て、そこに保存展示することは
 
まず不可能でしょうから、
 
せめてサイパンから帰還し
 
静岡県富士宮市の若獅子神社に展示してある
 
『九七式中戦車チハ』のような
 
防腐処理を現地で実施できればなぁと
 
切望するものであります。
 
 
 
 
 
 
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