日本降伏使節団を載せた緑十字機2機は、1945年8月19日木更津基地を出発!!の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

1945年8月11日、日本政府はポツダム宣言を受諾する旨

 

スイス経由で連合国軍に通知。

 

その回答が13日に寄せられ、

 

14日の御前会議で昭和天皇の御聖断により

 

宣言受諾が決定されました。

 

 

 

 

 

 

日本政府は15日正午に昭和天皇自らが

 

ラジオ放送を行うことにより、宣言の受諾と

 

降伏決定を国内外に通告。

 

 

 

 

 

 

これを受け連合国軍総司令部のマッカーサー元帥は、

 

早速日本政府及び大本営に代表団をマニラへの派遣を要請。

 

移動に使用する航空機に対し

 

  全面を白色に塗り、胴体の中央部に大きな緑十字を描くよう指示。

 

 

敵の空襲により多くの航空機を失った中で、

 

木更津航空基地には一式陸攻11型と、

 

一式陸上輸送機11型が現存していたので

 

その内の2機を急きょ塗装の塗り替えと

 

武装撤去・座席の設置を行い改装します。

 

(輸送機は物資輸送のため座席を取り外してました)

 

 

 

羽田飛行場で駐機中の一式陸上輸送機11型

 

 

 

降伏使節団は、 大本営参謀次長河辺虎四郎中将が全権大使、

 

参謀本部作戦課長第一部第二課長天野正一少将その他

 

陸攻搭乗員を含め総勢16名となります。

 

 

陛下の玉音放送終了直後から厚木航空隊は

 

徹底抗戦の姿勢を崩さず、

 

マニラへの使節団派遣を知られると

 

使節団を撃墜しに来るかもしれないので

 

準備は極秘裏に行い、一行は19日早朝

 

羽田飛行場に集合し零式輸送機で木更津に移動。

 

 

緑十字機2機に分乗し7時18分に出発。

 

マニラの指示通り沖縄の伊江島に向かいます。

 

 

 

足摺岬南方でB25・B17が護送エスコートのため合流

 

鹿児島の佐多岬南方海上で警護のP38と会合

 

緑十字機2機は13時すぎ、伊江島飛行場に到着

 

伊江島に到着した日本降伏使節団

 

左から二番目が大本営参謀次長河辺虎四郎陸軍中将

 

伊江島に到着後過すぐに米軍機ダグラスC-54

スカイマスター輸送機に乗り換えマニラに移動

 

 

 

ここで米軍機に乗り換えた理由として、

 

1945年当時の日本軍機全般に言えいることだが

 

学徒動員などが各兵器の製造に携わってたため

 

各部品の品質低下から来る故障が多々あり、

 

マニラまでの飛行に不安があったこと。

 

 

日本降伏使節団の渡比は極秘裏に行われ

 

日米双方全軍に布告されてなかったので

 

双方からunknown(国籍不明機)として

 

攻撃の対象となる危険があった等々。

 

 

ダグラスC-54は18時前(現地時間)、

 

マニラのニコルス飛行場に到着。

 

 

 

 

 

 

降伏使節団はフィリピンのマニラで連合軍と会談して

 

最高指揮官マッカーサーによる降伏要求文書を受領、

 

連合軍の進駐詳細や全軍武装解除を中央に伝達するため

 

足早に帰路に付きます。

 

 

 

 

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