1945年8月18日、すでに停戦してる占守島守備隊にソ連軍は卑怯にも攻撃を仕掛けて来たゾ!!の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

1945年8月15日正午、天皇陛下の玉音放送が

 

全国に流され、国内的にはこの日が終戦の日となっています。

 
 
 
 
 
 
戦時中大本営は各方面軍や艦隊に対し、
 
大陸命や大海令を以って命令伝達を行っていました。
 
 
8月15日の大本営海軍部命令大海令47号では、
 
海軍総司令長官に積極攻勢を見合わせることを発令し、
 
翌日の大海令48号では、海軍総司令長官、
 
南東方面艦隊司令長官、南西方面艦隊司令長官に
 
自衛戦闘行動以外の戦闘行動を
 
即時停止することを発令しました。
 
陸軍も同様に発令を行っています。
 
 
 
千島列島のほぼ最北端、占守島には第91師団の
 
歩兵第73旅団や海軍部隊約8500名が駐留しています。
 
 
 
 
 
 
部隊には8月9日にソ連軍参戦との報告が届いてるので
 
警戒を強めてた矢先の14日、カムチャッカ半島最南端
 
ロパトカ岬のソ連軍砲台から竹田浜付近に数発の砲撃がありました。
 
 
 
 
 
 
15日夕刻には、国籍不明機が占守島を爆撃。
 
17日朝から空爆と砲撃が繰り返されています。
 
念のため竹田浜付近には
 
独歩第282大隊隷下の中隊を展開させます。
 
 
18日夜中に敵は突如上陸を開始。
 
他の連合国軍は全て戦闘行為を
 
停止してるにもかかわらず
 
ソ連軍のみが今もなお戦闘行為を継続中デス。
 
 
 
 
 
 
それと言うのも、
 
対日戦への参戦が遅れたソ連としては、
 
一刻も早く侵攻の速度を上げ少しでも多くの
 
占領地を確保したい思惑があっての事。
 
未だ正式な降伏文書を日本側と交わしてない
 
今こそが進撃のチャンスと見てる模様。
 
 
ここ占守島では
 
簡単に占領できると踏んでたようですが、
 
第5方面軍は第91師団に「断固撃滅すべし」
 
との命令を出し、敵上陸用舟艇への砲撃を開始。
 
これらを次々と破壊していきます。
 
 
 
 
 
 
同島には陸海軍それぞれ航空基地を有し、
 
配備数は極めて少ないけど、
 
(一式戦4機・九七艦攻4機)
 
全機出撃し上陸船団を攻撃。
 
 
先に上陸した先遣隊は主力部隊の
 
上陸を待たず四嶺山方面へ進撃を開始。
 
 
幸い同島には満州から転進してきた
 
戦車第11連隊の九七式中戦車39両、
 
九五式軽戦車25両が展開しており
 
四嶺山に出撃し敵を撃退します。
 
 
 
 
 
 
それに対し敵は対戦車砲を前進させ、
 
我軍戦車を次々と擱座・撃破していきます。
 
 
 
 
 
 
四嶺山攻防戦では戦車第11連隊は27両の戦車を喪失。
 
 
 
 
 
 
その後高射砲部隊の砲撃により敵を撃退。
 
戦車第11連隊後方に位置していた独歩第283大隊は、
 
その勢いをかってすでに占領された
 
国端崎に向け前進し、これを占領。
 
歩兵第74旅団主力も四嶺山の東南に進出。
 
敵を海に追い落とす態勢を整えました。
 
 
 
 
 
 
その時です、第5方面軍司令官から
 
戦闘停止・自衛戦闘移行の命令が届きます。
 
第91師団はそれに従い、
 
18日16時をもって積極戦闘を停止。
 
しかし敵はそれを無視し攻撃を続行。
 
 
第91師団司令部は、
 
18日15時に軍使を派遣するも敵はそれを拘束。
 
翌朝再び軍使を派遣。
 
ソ連側は、
 
日本側の最高指揮官の出頭を要求。
 
その後、交戦と交渉を重ねようやく
 
我軍の武装解除にたどりつきました。
 
 
 
 
 
 
ソ連はなぜこのような
 
理不尽な行為を繰り返すのでしょう。
 
 
この時からさかのぼること約150年。
 
ラックスマンが根室に来航します。
 
江戸幕府に通商を迫りますが翌年幕府はこれを拒否。
 
その後、ロシアが蝦夷地を襲撃する事件が発生。
 
緊張感が高まります。
 
 
1853年ペリーが浦賀に来航し、翌年日米和親条約を締結。
 
 
 
 
 
 
これに倣いロシアも日露和親条約を締結。
 
最初に鎖国中の江戸幕府の門戸を叩いたのが
 
ロシアなのに後から来たアメリカと仲良く
 
し出したことが面白くない。
 
 
もともとロシアは日本を東洋の小国で蛮族の集団と
 
みなしがちでした。
 
 
にもかかわらず、
 
日露戦争での旅順・奉天での敗戦
 
バルチック艦隊の壊滅により
 
停戦を余儀なくされた事。
 
 
 
 
 
 
1939年のノモンハン事件でも
 
国境紛争を巻き起こしたのは
 
満州側(日本側)だとの意識が強い。
 
とにかく東洋の小国に
 
噛みつかれたのも面白くないんです。
 
 
 
 
 
 
それとロシアはその広大な国土から
 
様々な隣国と国境を接し
 
絶えず国境紛争を経験してきました。
 
そこから学んだことは
 
「実効支配したものが勝ち」
 
といった論理で、日本側の
 
論理など知ったことではないと
 
一掃してるのです。
 
 
 
 
 
 
ソ連側の終戦は9月3日とされています。
 
ゆえに占守島の戦いは
 
あくまで戦争継続中の作戦であると言い放ってます。
 
 
これらの戦闘で戦死された方は
 
死んでも死に切れんでしょうね。
 
でもここで武装解除に応じた将兵たちは
 
シベリア開拓の労働力として
 
長く苦しい抑留生活を送ることになります。
 
 
 
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