1944年3月23日、伊42は就役後わずか4ヵ月で敵潜の雷撃で無念の沈没!!の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

伊42は伊40型の3番艦として

 

1943年11月3日に就役し、

 

第一艦隊第11潜水戦隊に編入。

 

 

 

 

 

 

1944年2月12日、伊42は横須賀を出港.

 

トラック島北東方面に進出するが、

 

戦果のないまま3月3日にサイパンに帰投。

 

その後トラック~パラオに進出し

 

輸送人員等を搭載した後、

 

3月23日にラバウルに向け出港。

 

 

 

その頃ガトー級潜水艦のタニーは

 

パラオ諸島で哨戒任務に当たります。

 

その間水偵に発見され対潜爆弾を投下されたり、

 

レーダーで大輸送船団を探知し雷撃するが

 

護衛艦が爆雷攻撃を開始したので、回避行動します。

 

23日21時過ぎ、ペリリュー島西方で

 

浮上航行中の潜水艦を発見。

 

23時半頃タニーは魚雷4本を発射。

 

内2本が命中し潜水艦は轟沈しました。

 

この潜水艦が伊42と見られています。

 

 

 

 

 

 

伊42は何ら活躍することなく

 

わずか四か月と20日の艦命でした。

 

 

 

タニーは同海域でさらに哨戒中の29日、

 

パラオ西水道の西海域で艦隊を発見。

 

この艦隊はパラオ空襲から避難中の

 

武蔵・軽巡大淀や駆逐艦数隻でした。

 

 

 

タニーは魚雷を6本発射。

 

3本が武蔵に向かいますが、武蔵は2本を回避。

 

しかし残り1本が武蔵の艦首部

 
バルバスバウ後方付近に命中。
 
10メートル以上の亀裂を生じ、
 
戦死傷者10数名が出ました。

 

 

 

 

 

 

ご存知のように大和型は頑丈な防水区画を設けてあり
 
魚雷1本では蚊に食われた程度のダメージしかありません。
 
 
 
 
 
 
1943年12月25日、大和はトラック島北西海域で
 
敵潜水艦スケートの魚雷攻撃を受け
 
主砲3番砲塔右舷に魚雷1本を被雷しましたが、
 
被雷後も涼しい顔して20ノットを保ちながら
 
トラック泊地へ到着しています。
 
 
しかしそれは一番防御力の高い艦中央舷でのこと。
 
いかなる軍艦に限らず船は水の抵抗を
 
減らすため艦首は細くなってます。
 
必然的にこの辺りは艦中央に
 
比べて全ての艦では防御力は低下します。
 
 
 
 
 
 
武蔵は運悪くここの細い部分に被雷してしもたんですね。
 
武蔵やから耐えれたんであって巡洋艦以下なら沈んでたかも。
 
ただ駆逐艦が8隻もおったのに、敵潜の存在を探知出来んかった。
 
敵と同等の潜水艦探知能力があったらじきに発見してたやろに。
 
 
 
 
 
 
一歩間違えば翌30日のパラオ大空襲に遭遇し、
 
ここで沈んでたかもしれんかったんで、
 
それはそれで不幸中の幸いやったんやけど……。
 
 
 
 
 
 
トラック空襲・パラオ空襲を間一髪で逃げ切った武蔵ですが
 
その余命はあと半年ほどしかなく、
 
1944年10月24日レイテ沖海戦で
 
シブヤン海に差し掛かったところで敵機の攻撃を受け、
 
これと言った活躍が出来ないまま沈んでいきました。
 
 
 
 
 
 
トラックでは活躍の場が与えられることなく
 
周囲からは『武蔵御殿』などと揶揄され、
 
最後は大和のように敵艦に対し
 
自慢の主砲の威力を発揮することなく
 
レイテまでたどり着けずに
 
水く屍となった乗組員の無念を思うと、
 
察するに余り有るものがありますね。
 
 
 
 
 
 
武蔵の起工があと1年遅ければ、信濃同様
 
改マル5計画の流れを汲んで空母に設計変更
 
されてたかもしれませんね。
 
 
 
 
 
 
 
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