ミレー島守備隊は戦艦アイオワを砲撃し命中させてるのに、日米両軍から無視され続けてるゾ!!なんで? | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

日本から南東におよそ4600キロ。
 
太平洋の中部、マーシャル諸島にあるミレー島。
 
ここに海軍の飛行場が建設され、
 
3000人の海軍守備隊が駐留していました。
 
 
 
 
 
 
1943年11月20日~11月23日
 
ギルバート諸島マキン環礁に
 
11月21日~11月23日、
 
ギルバート諸島タラワ環礁に
 
双方合わせて約41000名の
 
敵が上がってきました。
 
 
我軍は善戦するも両島とも玉砕。
 
 
 
 
 
 
マキン・タラワ攻略の支援のため
 
第50任務部隊が近海に遊弋しており
 
海軍第755空の陸攻が攻撃を仕掛けるも
 
空母インディペンデンスが魚雷1発を受けて
 
損傷した程度で、後の空母たちは健在でした。
 
 
 
 
 
 
敵の次の目標はマーシャル諸島です。
 
12月5日未明、敵機動部隊は386機もの
 
艦載機を発艦させ、クェゼリン環礁
 
ルオットを攻撃し、海軍の飛行基地の
 
航空機を破壊、環礁内の多くの艦船を
 
沈めました。
 
 
その頃日本側の索敵機も敵機動部隊を発見し、
 
ウォッゼの天山6機が出撃します。
 
 
 
 
 
 
その後に出撃した陸攻隊が敵機動部隊を発見し、
 
空母レキシントンに魚雷1本を命中させ中破。
 
他には軽巡2、駆逐艦1に軽微な損傷が出たのみでした。
 
 
 
 
 
 
日本軍はマキン、タラワの失陥以来、
 
マーシャル諸島の兵力増強を図り
 
ミリ環礁ミレー島には海上機動旅団
 
甲支隊の金沢歩兵第107連隊1000名を送りました。
 
 
 
 
 
 
1944年1月30日早朝、
 
第58任務部隊は約750機の艦載機で
 
マーシャル諸島を空襲。
 
日本軍航空部隊は午前中までにほぼ壊滅。
 
 
2月2日、ルオット島、
 
ナムル島、クェゼリン島に敵が上陸。
 
 
 
 
 
 
これらは早期に占領されてしまいます。
 
 
一方ミリ環礁はどうだったのでしょう。
 
敵は戦力的価値のない島々は
 
アイランドホッピング(飛び石作戦)で
 
侵攻時間の短縮と、兵力の温存を図り
 
ミリ環礁は飛ばされました。
 
補給路を断っておけばやがて自滅すると
 
踏んだようです。
 
まるで秀吉の水責めですね。
 
 
飛ばされたと言っても航空攻撃は続き
 
被害は増えていきます。
 
 
1943年12月23日、
 
補給物資を満載した第2南海丸が
 
環礁内に到着しました。
 
守備隊から歓声が上がった直後、
 
敵機が来襲し、第2南海丸は
 
物資とともに海の藻屑と消えました。
 
 
 
第2南海丸
 
 
 
軍はこれ以降補給困難を名目に
 
ミリ環礁を見捨てます。
 
 
また敵は日本軍の増援・反撃がないことを
 
いいことに、ここへの航空攻撃は
 
経験の浅い艦載機パイロットの
 
練習台とされてしまいます。
 
なめられたもんですねぇ。
 
 
 
 
 
 
3月18日、戦艦アイオワはミリ環礁への砲撃を
 
行うべく、接近してきます。
 
同島には日露戦争で活躍した巡洋艦から降ろした
 
15センチ水平砲が設置されており
 
これらが火を噴き、アイオワに命中させます。
 
守備隊から歓喜が上がりました。
 
しかし旧式砲で最新鋭艦に
 
致命傷を与えることは出来ず、
 
反撃を食らいました。
 
 
 
 
 
 
その後ミレー島守備隊は2年近く補給は途絶え、
 
兵士たちは飢えのために次々と倒れていくのです。
 
 
こうなると
 
金沢歩兵第107連隊1000名の進出が
 
重荷になり、やがて陸海軍日本人同士
 
食料を巡っての戦いとなりました。
 
 
ミレ環礁には最大約5800人もの
 
守備隊がいましたが、
 
終戦後の9月29日復員船氷川丸に乗船した
 
人数は2590名。
 
三千人以上の将兵が、戦死・戦病死・
 
餓死していたのです。
 
 
 
 
氷川丸
 
 
 
ミレー島では現在静かに時が流れ
 
まさに“兵どもが夢の跡”です。
 
 
 
 
 
 
石川護国神社には
 
多くの慰霊碑が建立されており、
 
その中にミレー島戦士之碑が
 
ひっそりと佇んでいます。
 
 
 
 
 
 
還らぬ人の想いは、現代の日本人に届くのでしょうか。
 
 
 
 
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