当家一族による沖縄での慰霊祭が終了して、はや7年が過ぎてしもた!!な~んか寂しいなぁ…の巻 | 第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

第伍章「あっそう、ふ~ん!!」

主に戦史について取り上げてますが戦史には諸説ありますので、明らかな誤記以外はご容赦を!!

当家一族には、
 
沖縄戦に参戦したのが3名いました。
 
2名戦死し、1名生還しています。
 
生還したのが次席伯父で、
 
鹿屋から桜花をぶら下げて
 
沖縄方面に出撃したけど
 
敵艦載機に見つかってしまい、
 
積乱雲に飛び込み
 
奇跡的に生還を果たしました。
 
 
 
 
 
 
伯父たちの機の搭乗員は開戦時から
 
同じ釜の飯を食ってた熟練搭乗員で
 
技量も度胸もピカイチやけど、
 
ともに出撃した3機はいずれも
 
予備士官が機長を務める経験浅い
 
連中だったそうで、
 
敵機の襲来時も回避行動を取らず
 
ひたすら直進しようとして
 
あっという間に落とされたそうです。
 
 
 
 
 
 
復員し、伯父が沖縄戦の悲惨な戦いを知ったのは、
 
終戦から10年以上経った昭和30年代で、
 
大変ショックを受けたそうです。
 
 
開戦から健在だった伯父たちは、
 
1945年になると希少価値となり
 
とても貴重な存在だったので
 
神雷部隊司令の岡村大佐から
 
「万が一敵機と遭遇した場合
 
躊躇することなく桜花を投棄し
 
何としてでも帰ってこい!」
 
「本作戦は死ぬことにあらず」
 
「桜花を発射する好機はいずれ必ず来る。
 
決して犬死してはならぬ。」
 
「これは命令だ!」と厳命され、
 
あの時も命令に従い退散したそうです。
 
 
しかし同行した他の機は帰って来なかった。
 
「私だけ生き延びて、死んだ者たちに申し訳ない」
 
「一旦積乱雲に機を隠し、その後
 
再び沖縄を目指しておれば
 
桜花を発射出来たかも知れない」
 
「桜花がたった一杯の敵艦を沈めたところで
 
大勢には何の影響もないだろう」
 
「しかしその敵艦が発射したであろう
 
艦砲を阻止することで、わずかの命でも
 
救うことが出来たかもしれない」
 
「沖縄の人達を助けることが出来ず
 
ほんまに申し訳ないことをした」
 
と、涙を流していました。
 
 
筆頭伯父は1945年5月、
 
知覧から沖縄方面へと出撃し散華。
 
 
 
 
 
 
遠縁の方は、独歩第13大隊として
 
嘉数で布陣。大隊は大半を嘉数で失うが
 
一部は現在のおもろまち付近まで後退。
 
真嘉比南高地の戦闘で戦死。
 
 
 
 
 
 
復員した伯父は、神戸の空襲で本家が
 
焼失してたことに呆然としたそうですが、
 
戦後がむしゃらに働き昭和50年代に入り、
 
少し余裕が出来たこともあって
 
一族に呼びかけ、沖縄での慰霊祭を決意。
 
 
開始当時は沖縄の慰霊の日である
 
6月23日に執り行われていましたが、
 
何せこの日の前日は本土から大挙して
 
遺族や関係者が押し寄せるので、
 
航空券や宿が取りにくいし、
 
足元見られて通常より全ての物価が高い!
 
南部へ移動するのもかなり時間がかかる!
 
それと沖縄では梅雨も終わり
 
完全な夏のためメッチャ暑い!
 
礼服の中は汗まみれ。
 
 
 
 
 
 
 
それで開催して3年後には4月半ばに
 
変更して毎年執り行ってきました。
 
それでも現地で礼服に着替えると
 
汗が噴き出します。
 
※沖縄の4月の平均気温は25℃。
 
中には28℃という年もありました。
 
沖縄平和祈念公園の中で、
 
勇魂の碑・黎明之塔は西端にあり、
 
島守の塔からは坂を上って
 
20分くらいは歩いてたでしょうか。
 
高齢者にはかなりきつかったと思います。
 
※いつの頃からか、園内の移動には
 
通称100円バスと呼ばれる電動カートが
 
登場し、それ以降はかなり楽になりました。
 
 
 
 
 
 
10数年前、高齢化を理由に慰霊祭の
 
責任者を伯父から引き継ぎ
 
礼服での参加を廃止しましたが、
 
私服ではなんか遊びに来てるみたいで
 
どうもしっくりこないとの意見も…。
 
ホンマ全国に散らばる一族7家を
 
取りまとめるのは大変で、1泊で行くのが限界。
 
観光どころではありません。
 
 
3年ほど私服での慰霊祭を挙行した後
 
従弟らと話し合い、なんか統一した
 
ユニホームを作ることとなり、
 
左胸と背中に当家の家紋を、
 
左袖にそれぞれの居住地名を
 
明記したポロを作成しました。
 
 
 
 
 
 
 
毎年那覇空港で集合し、海軍司令部壕~
 
ひめゆりの塔~沖縄平和祈念公園~
 
首里城~沖縄ホテル(泊)~対馬丸記念館~
 
嘉数高台展望台~那覇空港(解散)等
 
ほぼ、この日程で消化していきました。
 
 
 
首里城戦跡巡礼
 
八重瀬町慰霊碑巡礼
 
島尻南部慰霊碑巡礼
 
摩文仁の丘慰霊碑巡礼
 
喜屋武岬方面慰霊碑巡礼
 
 
 
その年に応じてひめゆりの塔・首里城
 
対馬丸記念館を、伊原第一外科壕・喜屋武岬
 
魂魄の塔・山城陸軍病院本部壕跡・
 
寿山海軍壕跡(田原公園)・大里城址公園
 
南城市大里農村環境改善センター・
 
南風原陸軍病院壕・ずゐせんの塔など
 
に置き換えて戦跡慰霊にも出かけました。
 
 
 
寿山海軍壕跡
 

 

南風原陸軍病院壕

 
嘉数戦跡巡礼
 
西原町戦跡・慰霊碑巡礼
 
 
 
先ほども述べましたように
 
一族にも高齢化が押し寄せ、
 
約10数年前私に幹事を託されてから
 
約8年間頑張ってきましたが、
 
私を含む従弟に体調不良が相次ぎ
 
7年前に38年間続けた慰霊祭は終了しました。
 
 
その間慰霊祭では訪れることが出来なかった
 
所へも訪れることが出来、まずまずの
 
成果だったんではないかと感じています。
 
 
 
読谷村戦跡・慰霊碑巡礼
 
 
 
私自身、幼少の頃より
 
祖父や伯父からいろんな話を聞き、
 
10代の頃から沖縄戦について
 
調べてまいりました。
 
7家族を取りまとめて沖縄で
 
慰霊祭を執り行うのは、
 
正直言って労力がいります。
 
 
しかしいざ終了すると、
 
一抹の寂しさを覚えてしまいますね。
 
慰霊はしてもしてもし尽くす
 
と言うことはありませんから。
 
 
沖縄での観光は
 
ほとんどしたことはありませんが、
 
次に個人的に沖縄入りする時は
 
少し観光も取り入れて
 
各地を巡ってみたいと思います。
 

 

 

 
 
 
ゆいレール旭橋駅を少し西に行った所の
 
沖縄国際平和研究所は、
 
元沖縄県知事大田昌秀氏が理事長を務めてた
 
資料館でしたが、大田氏ご逝去に伴い
 
閉館となりました。
 
親しくさせていただいてただけに、とても残念です。
 
 
 
 
 
 
各地の慰霊碑を前にして、叔父はいつも
 
手を合わせながらぶつぶつとつぶやいていました。
 
ある時、いったい何を言ってるのだろうと
 
聞き耳を立てて見ると、
 
「皆さんを守れなくて、ごめんなさい、ごめんなさい…」
 
 
その心の底からの贖罪の言葉が
 
今でも忘れることが出来ません。
 
 
 
 
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